怒りは自身から現れる
今朝の山陰中央新報の連載「中村元 慈しみの心」は、この言葉が紹介されていました。
「それら(貪りや怒りなど)は愛執から起こり、自身から現れる」。
今の時世を踏まえると、思わず新聞を読み走る目が止まり、様々な思いが去来する一文です。
実はこの一文、我々がよく手にする『岩波文庫 ブッダのことば〜スッタニパータ〜』(中村元 訳)では、同じ箇所が次のように記されています。
貪欲と嫌悪とは自身から生ずる。(中略)それらは愛執から起り、自身から現れる。
おそらく、服部先生は原典に当られ、対応する語句も、パーリ語のドーサ(dosa)、サンスクリット語ドゥヴェーサ(dveṣa)を訳されたのでは、と思われます(筆者は無知で、原典を読むことができません)。
これは日本語では貪瞋痴の「瞋」、つまり怒りのことを表す語句ですが、ヨガなどでは、貪欲は自分が好きなこと(執着)をラーガと言い、それに対義する言葉、つまり嫌いなこと(忌避)をドーサと言うようです。
怒り、とだけいうと意味が多元的です。癇癪もあれば、悲憤や義憤もあります。
しかしこれが「嫌悪」と訳されると、意味は非常に限定されます。つまり公共心に根差した義憤はなく、「自身の愛執から現れる」私憤しかない、とも受け取れるわけです。
そして、「怒り≒嫌悪」は、つる草が林の中にはびこっていくように、絡まり定着していく。
服部先生がこの一文を選ばれ、敢えて「怒り」と訳したのに、何かメッセージを感じるのは私だけでしょうか。
著名な脳科学者の中野信子さんは、今年早々に著書『人は、なぜ他人を許せないのか?』を上梓。ネットの炎上や不謹慎狩り、不倫叩きを「正義中毒」という脳の作用から読み解かれました。
その要旨がわかるネットの記事があるので、宜しければご一読下さい。今回言いたいことは、私の要領を得ない文章を百読するより、この記事を一度読まれると明解です。
建設的な批判は、いつの時でも必要です。
「挙国一致」が絶対正しいとは思いませんが、ただ、今は怒りを一方的に吐き出すことで、社会が分断されるばかり。
爆笑問題の太田光さんが「今は陰謀論は非効率」と仰っていたことに、私も共感するところが多いです。
経過はどうであれ、おそらく今一番の不安に苛まされているのは、新型コロナウイルスの感染者とその周りの人たちのはず。
すでに回復した患者が、「世間の眼が怖くて退院したくない」と言っている、という話も聞きます。
自分が脳の手抜きをして、怒りのつる草に絡まれていないか、もう一度見つめ直してください。(副住職 記)
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