今こそ、問われる。
昔、私が「ある国」に行った時の話です。
数十名の団体旅行でしたが、ひょんなことから入国が認められず、数日間、税関で足止めをされることになりました。
会議室のような場所に全員押し込められて、一人当たりに与えられた場所は、ちょうど畳半分くらいといったところでしょうか。
シャワーを浴びる時以外は部屋の外に出られず、荷物も預けさせられたので、部屋の中では何もすることがなく、ただ時間が過ぎるのを待つしかありませんでした。
食事は、決められた時間に部屋の入り口に置かれたものをみんなで分け合いましたが、どう見ても量が人数分ありません。半人前か、時にはそれ以下の量しかない時もあり、たとえ食べても、とても空腹が満たされることがなく、逆に食べることがストレスになる状況でした。
他の人たちは、たまに雑談などをして慰めて合ったりしていましたが、私は、ただ押し黙って座っているだけでした。
誰かと話をしてしまうと、今の状況を甘受するために張り詰めさせていた気持ちが切れてしまって、愚痴や不満が、堰が切れたように止めどなく溢れ出そうに思えたからです。
ある日の昼食が運ばれてきた時、部屋の入り口でコンテナを受け取った人(仮にAさんとします)が、私たちに分配する前にコンテナを物色、あろうことか、一番最初に自分の取り分を3人分ほど、目の前に置いてから、コンテナをこちらに回してきました。
それに気づいた私は、思わずAさんを問い詰めました。
「ちょっと、こっちを見てくれよ。まだこれだけ人がいる。残りを考えてから自分の分をとってくれよ」
すると、Aさんは、耳を疑うような返事をしたのです。
「いえ、私はいいんです」
一瞬、言っている意味が分からなかったのですが、気がついた時には、自分でも何を言っているか分からないことをわめき散らしながら、Aさんに襲い掛かろうとしていました。
周りの人が必死に抑えなだめてくれたので、なんとか刃傷沙汰にはなりませんでしたが、我に返って、自分でも気づいていなかった怒りのエネルギー量に驚きました。
それから数日で、ようやく入国し、見学や観光などをしました。楽しい思い出もいっぱいあったはずなのに、あの旅行で一番最初に思い出すのは、Aさんが、
「いえ、私はいいんです」
と言った時にかい見えた本性、そして、その直後に「バーサーカーモード」になった私を、周りが必死に止めてくれたことです。
私たちは、平時に冷静な行動をするのは当たり前ですが、そうでない非常時や、本当に追い詰められた時こそ、その行動の「良し悪し」が問われる。
Aさんも、そして逆上した私も、それができなかったし、後々まで残るのは、結局は嫌な記憶と経験の「しこり」なのです。
島根県でも新型コロナウイルスの感染者が出ました。
「正しく恐れる」のはもちろんですが、「正しく」が何かわからない時は、「冷静に」と置き換えてもいいでしょう。
神様や仏様じゃなくても、第三者が今の自分を見てどう思うか、弁えて行動するようにしなければいけません。
Aさんは、それを逆説的に教えてくれたと、今、私は思うようにしています。(副住職 記)
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