コロナ禍の施無畏
未だ、新型コロナウィルスの災禍が止みません。
すでに曹洞宗も、開催予定だった行事や会議を中止。5月に開催予定だった梅花流全国奉詠大会も中止となりました。
そして、これからお彼岸の期間がくるのを踏まえて、次のような注意喚起を行なっています。
一方で、僧侶でジャーナリストの鵜飼秀徳氏は、「感染症との戦いは仏教の伝統」として、「やれる行事は実施していくべき」と、一連の自粛ムードへの私見を述べられています。
うちの教区でも、今月から各寺で大般若会が厳修されますが、住職と数人の総代さんで勤められるところもあれば、例年通りに開催するところもあり、対応はそれぞれです。
当寺の大般若会も来月の17日にあり、檀信徒に向けた案内文を送付しなければなりませんが、どのような形でお勤めするか、対応を決めかねています。
このような世情の中、曖昧な情報源が拡散され、一時はマスクやトイレットペーパーが、買い占めによって店頭から無くなるという「インフォデミック」が発生。
また、テレビの情報番組でも終日この話題を取り上げていますが、専門家もコメンテーターも議論百出で、何の見識を頼りにしていいのか、分からない状況。
これを受けて、今月の掲示板に次のようなものを掲げました。
「リテラシー」とは、元々は「読み書きする能力」という意味で、対象を適切に読み解き、活用すること。
予防衛生と共に、安易に情報を鵜呑みにせず、かと言って楽観もせずに、「冷静に、正しく」事態に備えて欲しい、という意味で、掲示しました。
が…。
かく言う私自身、情報リテラシーを発揮し、適切に活用しているかというと…?
先日、ある会議に出席した時です。
8畳ほどの会議室に10名ばかりの方が集まられました。
私は後からの参加となり、部屋に入ると、出席者は全員マスクをされていました。
それを見るなり、「少しお待ち下さい」と言って一旦退出。たまたま持参して、別室に置いていたマスクを取りに行き、それをつけてから会議に加わりました。
特にマスクの買い占めが起きて以降、メディアでは専門家を中心に、
「健常者がマスクをしてもあまり意味はない。感染者が着用することで、飛沫感染の予防に役立つ」
と言われていたのを、私も知っていました。
でも、全員がマスクをしている状況を見て、思わず「空気を読んで」しまったのです。
これって、私がリテラシーの実践をしていない、ということになるのかもしれません。
しかし、この打ち合わせ中に、
「例えマスクの医学的効果が情報の通りだったとしても、マスクをすることでみなさんの畏れが減って安心されるのであれば、その方が良い」。
と考えていました。「事実」より「手段」を選んだ、と言えるでしょうか。
特効薬もなく終息も見えない。だから何を頼っていいか分からない。
とにかく今のコロナ禍には、畏ればかり募って安心がありません。
だからマスクをすることが、当座の安心を与えられて、要らぬ不安を生まないようにするのであれば、それは決して「日和見」と批判できないのではないでしょうか。
新型コロナウィルスの情報に限らず、リテラシーにおいて、何をもって「正しさ」の線引きをするのは、相当難しい。
結局のところ、私たちは判断の基準を、自身の信念や快感原則、思想や信条、周りの空気感、影響のある第三者の言説に預けてしまいがちになります。
そして一度「正しい」と決めてしまうと、それに固執します。
固執は「偏り」を生み、異なる意見や立場との対立を生みます。
お釈迦様は、物事の真偽を判別するのに、
①風説 ②伝承 ③神話 ④聖典 ⑤推論 ⑥定理 ⑦常識 ⑧信念 ⑨権威 ⑩師匠
これらを頼ってはいけない、と説かれています。
詳しくは、日本テーラワーダ仏教協会のアルボムッレ・スマナサーラ長老が「すべては自ら確かめよ!」と題したご法話で語られていますので、ご参照下さい。
これは、「何も頼ってはいけない」という虚無主義を説いているのではありません。
安易に、何か一つだけに依拠してしまうと、人は判断を誤る。
すべての情報の価値を俯瞰して評価し、最後は自分で判断する大切さを説いているのだと思います。
掲示板で私が「リテラシー」と示したかったのは、正にこういう態度や行いのことです。
寺院での行事に自粛が多いのは、今の時点では致し方ないと思います。まして、韓国大邱でのクラスターの一件があったら、尚更でしょう。
しかし、鵜飼氏も指摘している通り、単に自粛ムードに盲従してもいられません。
私たち宗教者が弁えるべきは、行事の自粛であっても敢行であっても、それが悲観でも楽観でもなく、自己満足でもない。
ただ、それが民心の畏れを減らし、安心を得られる「施無施」になっているかどうか、ではないでしょうか。
今、慎重に、舵を切るタイミングを見計らっています。(副住職 記)
0コメント