宗門の禅者「大雄義寧 大和尚」
五十年に一度開帳される「秘仏 元隠岐国あごなし願王地蔵大菩薩三尊像」
過疎や少子高齢化、現代人の宗教観の変化などからもたらされる問題についてまとめた『寺院消滅〜失われる「地方」と「宗教」』を平成二十七年(二〇一五)年に上梓して話題となった、ジャーナリストで浄土宗僧侶の鵜飼秀徳氏は、近著『仏教抹殺〜なぜ明治維新は寺院を破壊したのか』の中で、
実は、「寺が消える」という点においては、かつての廃仏毀釈と、現在の寺院を取り巻く状況とはさほど変わらない。私はとくに都会人によく見られる〝僧侶に対する反発〟は、「第二の廃仏毀釈」の前兆とみている。
と、およそ一五〇年前の明治維新を契機にした廃仏毀釈を引き合いにして、現代の仏教界の置かれている危機について提起しておられます。
同じような指摘をされる宗門僧侶がおられます。曹洞宗審事院長として、日々宗門内における争議の調停に当たっておられる、大阪府豊中市・東光院住職の村山廣甫老師です。
東光院現住で曹洞宗審事院長の村山廣甫老師
村山老師は、「日本仏教には3回の法難がある。1回目が明治の廃仏毀釈、2回目が太平洋戦争終戦後の農地解放、そして3回目が現代です」と述べられました。その村山老師が「名僧中の名僧」と評されているのが、ご自坊である東光院の歴住八世として、幕末から明治にかけて活躍した大雄義寧大和尚(以下、義寧)です。
安政四(1857)年に東光院に晋住した義寧は、明治の廃仏毀釈の気運流々とした世情の中で、まず明治三(1870)年に「道了大権現堂」を落成。これは、豊臣秀吉が小田原征伐の陣中で夢告を受けたことをきっかけに大雄山最乗寺から勧請された道了尊を祀る堂宇で、実質的には七世•真際一如大和尚が発願して進めていた事業を引き継いだものです。ただ、その縁日である「道了祭り」(現在の「萩まつり道了祭」)が、後に重要な意味を持ってきます。
そして、「あごなし地蔵」(「腮無」「顎無し」の異表記あり)の遷座について。
歯痛に効験があるとして全国的に信仰されているあごなし地蔵は、元々は現在の島根県隠岐島町都万目で、仁明天皇の御代から千二百年もの間祀られている小野篁正作の腮無地蔵が本拠だと言われています。
小泉八雲は『(知られぬ)日本の面影』の隠岐紀行文の中で、
「顎無し地蔵」としてその習俗の様子を伝えていますが、「その像の安置してあった小寺は火事で焚けて、その像も一緒に焚けてしまった」
としています。実はその消息が、東光院の寺伝にあるのです。
廃仏毀釈の嵐が吹き荒れる明治2年、隠岐島の伴桂寺が廃仏に遭いました。
伴桂寺の最後の住職となった聯山祖芳(れんざんそほう)大和尚は、当時の当院住職大雄義寧禅師の弟子でした。伽藍、仏像、経巻、什宝を悉く焼却破棄する未曽有の暴挙に遭った祖芳和尚は、千年にわたって全国的に厚い信仰を集めていた小野篁(おののたかむら)卿正作のあごなし地蔵尊像を命を賭してお護りし、師寮寺である東光院へ逃げてきたのです。
この霊像の再興を図る祖芳和尚は、義寧禅師に当山での永世護持をこいねがい、尽には許されて我が国最古級のこの由緒探き地蔵尊像は、当山に連座されることとなりました。 (東光院HPより)
歴代天皇の流刑地で、元々神道に篤かった隠岐では尊王攘夷の気運が強く、慶応四(1868)年に島民が蜂起し、松江藩の郡代を追放して、およそ八十日間に渡って島民自治を実現しました。いわゆる「隠岐騒動」です。
その余波が、島内で熱狂を伴って行われた廃仏毀釈でした。およそ一〇〇あった諸島内の寺院は、これによりわずか2ヶ寺しか残らなかったと伝えられています。
あごなし地蔵を祀っていた伴桂寺(小泉八雲が記していた「小寺」)も破却され、住職だった祖芳和尚は難を逃れて、豪商・石崎喜兵衛(『沢の鶴』の醸造元)らの扶助を得ながら、あごなし地蔵を東光院に将来、義寧はこれを境内に安座しようと発願します。
明治四(1871)年に「あごなし地蔵」の遷座と新堂の建立を大阪府庁に申請しますが、従来の江戸幕府による宗教統制で新寺建立が制限されていたことに加え、明治維新の廃仏毀釈の風潮もあって、「地蔵尊を祀るのは勝手だが、その堂宇を新たに建てることは固く禁ずる」との行政処分が下ってしまいます。しかし義寧は諦めませんでした。それどころか、この時の義寧は、もう一つの護法運動に取り組んでいたのです。それが「川崎東照宮」の承継遷座でした。
東照大権現(徳川家康)を祀る川崎東照宮は、西成郡川崎村(現在の大阪市北区天満)にありましたが、神宮寺の建国寺は明治になってその機能を急速に失います。元来、親・豊臣、反・徳川の気風が強い土地柄だったこともあり、戊辰戦争による大阪城焼失という混乱の中で略奪狼藉に遭って破却、明治六(1873)年には廃社に追い込まれます。
そんな中で建国寺の名跡を継いだ義寧は、川崎東照宮を邸内に抱えていた譜代の忍藩(現在の埼玉県)、北、南、天満の三郷の庄屋らの協力を得て、明治五(1872)年に建国寺の本地堂と本地仏の移譲の許可を、大阪府庁から得ることに成功します。
東光院の東照閣仏舎利殿(あごなし地蔵堂)
そして義寧は、この本地堂をあごなし地蔵堂として上棟します。落慶法要には忍藩関係者や祖芳と石崎の他、鴻池善右衛門、殿村平右衛門、中原庄兵衛といった名だたる在阪豪商が参列したと伝えられています。元々、地蔵盆など地蔵菩薩信仰に篤く、地蔵講も盛んだった大阪で、遷座後のあごなし地蔵は確固たる信仰を集めて、現在に至っています。
あごなし地蔵はこの安座で、従来より本地堂に祀られていた「こより観音」と連座することになりました。これは家康の長女・亀姫が川崎東照宮の造営に際して寄進したものですが、元々は後醍醐天皇の菩提を弔う供養仏だと伝えられています。
後醍醐天皇と言えば、一時は隠岐へ流刑され、そこでの雌伏によって権勢を回復し、後の建武新政へ繋げていきます。隠岐に所縁にある二つの仏像が、遠い大阪の地で邂逅を果たす。義寧の浄行がもたらした思いがけない奇跡と言えます。
また義寧は、川崎東照宮の廃社後の祭事も合せて引き継いでいきます。かつて「浪花随一の紋日」と称されて大いに賑わい、約250年続いた「東照宮権現まつり」は、現在の造幣局が川崎東照宮の跡地にあることから「桜の通り抜け」の淵源とも言われていますが、東光院移転後は、道了尊と併祀した「権現まつり」へ発展し、現在の「萩祭り道了祭り」へと続いています。
義寧は、明治という新時代への熱狂で社会が分断される中、日本古来の「やおよろず」の信心と寛容さ、そして大阪の伝統文化を、時代の荒波から守ったのです。
大事を果たした一方で、その反動もあったようで、一連の護法活動の原資として借財を重ねたことから、東光院住職の座を退かざるを得ませんでした。しかしその功績は色褪せることなく、明治二十九(1896)年に亡くなると、宗旨を超えた多くの僧侶で営まれる「百僧供養」によって化を遷されたと言います。
それにしても、義寧はこれだけの浄行を果たすことができた原動力は何だったのしょうか。
村山老師はまず、「磁場」としての東光院の由緒を挙げられました。
東光院は大正元年に現在の地へ寺基を移しますが、元々は大坂豊崎の里(現在の北区中津)にあり、その開創は天平七(735)年まで遡ります。
ここは古くから死者が出ると淀川河畔に遺体を積み置く「風葬」が行われていて、通称「浜の墓」と呼ばれていた場所でした。これを見て傷ましく感じた行基菩薩が火葬の方法を伝授、これがで我が国で初めての民間火葬でした。そして行基菩薩自ら薬師如来を彫像し、これを安置した薬師堂が寺基の淵源だと伝えられています。
江戸幕府による寺院諸法度の公布をきっかけに、天和元(1681)年に曹洞宗寺院に属しましたが、行基菩薩の精神を受け継ぐ東光院は、宗旨宗派にとらわれず、様々な僧俗が結縁する和合の場、各宗兼修の道場としての歴史を歩んでいきます。
現在の東光院の山門
また義寧自身に惹かれる信望者も多かったのは、「真宗大国」と言われる大阪の地で、
「妻帯せず簡素な暮らしぶりの義寧が、聖道門として高く評価されていからではないか。知行合一を体現していた。」
と村山老師は思い量られていました。
筆者としては、現代ではティク・ナット・ハンの活動として知られるエンゲージド・ブッディズム(行動する仏教、社会を作る仏教)を明治の世に為していた先駆性。そして、改弊の具体的な方途として、世俗の体制に諮った結果が護法に繋がった点が、卍山師・梅峰師らが人法を回復させた宗統復古運動とも通底していることを指摘し、改めてその遺徳を讃えたいと思います。
廃仏毀釈からの仏教の復興に尽力した仏者の動きとして、一般的には島地黙雷ら浄土真宗のそれがよく知られていますが、それに勝るとも劣らない「洞門の禅者」であった大雄義寧大和尚の浄行は、第三の法難の世にある私たちに、志の高さと行動力の大切さ、高潔さを教えてくれます。
参考文献「行基菩薩ゆかりの精舎 萩の寺とみほとけたち」東光院萩の寺 村山廣甫
「一枚摺の世界―その小釈の試み(6)」(『学苑』第九〇五号 所収)関口靜雄・岡本夏奈・阿部美香
『仏教抹殺〜なぜ明治維新は寺院を破壊したのか』(文春新書) 鵜飼秀徳
『知られぬ日本の面影』(響林社文庫) 小泉八雲
『腮無地蔵略縁起』 腮無地蔵奉賛会
『隠岐の歴史から〜『隠岐騒動』を考える〜』(隠岐の島町教育長 村尾秀信氏提供資料)
(副住職 記)<曹洞宗参禅道場の会 会報『参禅の道』第72号 所収>
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