クウガ、UWF、からの葬式仏教
本日は、『仮面ライダークウガ』の放送開始から20周年だそうです。テレビシリーズでは「BLACK RX」から10年ぶりに制作された「平成仮面ライダーシリーズ」第一作。
「特撮が好きではない」オダギリジョーが主役を務め、「新しいヒーロー 新しい伝説」をテーマに、徹底したリアル志向でシリーズを「再創造」し、今般までのシリーズ隆盛の原点となりました。
リアル志向というのは、例えば、クウガはグロンギ(怪人)とともに、警察から「未確認生命体」として番号付きで呼ばれる。劇中には場所と現在時刻が掲示されて、グロンギがいる現場までの移動時間に現実的な帳尻を合わせたり、別の場所の出来事を同時進行させて表現する。グロンギは基本的に「グロンギ語」を喋り、根本的に人間とコミュニケーションが取れない、などがその証左。
よく「戦隊よりも大人向け」と称される「平成仮面ライダーシリーズ」ですが、「大人向け」「リアル志向」という点では、以降に「クウガ」を超える作品はなく、正に原点にして頂点。「特撮」というより「ドラマ」を制作する、という気概あふれる作品でした。
今日はSNSでも、「クウガ」を回顧、総括する記事も多く見られ、「再創造」と「リアル志向」がどれにも通底する評価なのですが、これらを読んでいて、ふとあるムーブメントのことが思い出されました。
80年代にプロレス界を席巻したUWFです。
3カウントでフィニッシュしない。ロープワークがない。厳格なレフェリング。初期のエース格が木戸修と藤原喜明。
ショープロレスを否定し、格闘技としてのプロレスを純粋化して、徹底的に「真剣勝負」にこだわり、それまでのプロレスを「八百長」の域に追いやるほどの熱狂を生み出しました。
長らくプロレスファンを逆撫でしている「プロレスは八百長」という否定論。あるプロレスライターが「UWFという真剣勝負の場があったのが、プロレスとって一つの光」と評し、この否定論に対して「Uがあったじゃないか」という反論の「よすが」にするほどのインパクトを残しました。正に「再創造」と「リアル志向」の産物でした。
では、現在のプロレス界はどうなっているかというと、U系に出自を持つ選手も一部活躍していますが、その趨勢は当に衰え、もはや「遠い日の花火」。今の中心は、まさにUが否定したショープロレスを長年磨き上げてきた守旧派の新日本プロレス。
・・・似ている。「クウガ」に似ているのです。
クウガやUWFの「再創造」と「リアル志向」は、当時停滞していた業界を刺激するカンフル剤としては十二分でしたが、しかし興行としては長続きせず、その後のメインストリームを担ったとは言えません。
「クウガ」はシリーズの中では異質で、実際にのちのシリーズのフォーマットを確立していくのは、次作の「アギト」からだと思います。「クウガ」のプロデューサーとして新時代の幕開けを宣言したのは高寺成紀さんですが、「アギト」からのシリーズの前半10年で主にプロデュースを担ったのは、白倉伸一郎さん。
白倉さんがPになって、シリーズには途端に「誇張」と「けれん味」が加わり、話の辻褄合わせに執着しなくなりましたが、その分話自体は開放的で躍動感すら感じるようになり、作品全体がダイナミズムを獲得して、次第に支持を獲得していきます。高寺さんはプロデューサーに再登板した「響鬼」でシリーズに一旦終止符を打とうとしますが、結果的に途中降板。その後は白倉さんが穴を埋める形に。白倉さんは平成シリーズ10作目の「ディケイド」で、「クウガ」で解体されたはずの昭和を含めた歴代ライダーをアーカイブして、シリーズの「大河ドラマ化」を果たします。やがて高寺さんは東映を退社。一方の白倉さんは、現在は東映の取締役です。UWFが辿った経緯にも似ていないでしょうか。
重要なのは、「クウガ」やUWFがただ単なる徒労だったわけではなく、体勢側がそういったドグマチックなものを抱え込みながら、余力や選択肢として蓄えたこと。「平成仮面ライダー」はクウガである種の極端を形成したことが、今後のシリーズ制作の幅になりましたし、新日で言えば中邑真輔などは、まさにUWFがなければ登場しなかったようなタイプの選手であるし、オカダカズチカはオールドスタイルであるドロップキックを深化させ、説得力のある技に昇華させました。そして両者共にショーマンシップに一層の磨きをかけました。
結果として新日の懐の深さが際立ったように見えます。
さてこの話、昨今の「葬式仏教」にも通じるような気がします。
因習や加飾を徹底的に廃し、前例を徒らに踏襲しない合理性は、どこか「自然葬」の主張に通じるところがあります。八百長とまでは言えないが、それでも今まで「プロレス的」に葬儀をしてきた私たち僧侶に、ガチンコを仕掛けてきたわけです。
それに対して、私たちお坊さんがやっている伝統的なお葬式は、一時的には影響を受けることがあるでしょうが、完全に自然葬にシェアを奪われたことろまでには至っていないし、今後もそのように思います。一部の人は先鋭的な選択をしますが、おそらくより多くは「消極的な選択」として従来の葬儀の枠組みに則ると思われるからです。
私たちは、その「消極的選択」をした人が後悔しないよう、僧侶としての聖性やグリーフワークとしての機能性を真面目に磨き上げていけば、それがまた今後の信頼や需要につながっていくのではないでしょうか。
一方で教団としても、「クウガ」やUWFのような極端を内包していく必要があります。それが聖僧や師家と言われる方々です。
「修行できるのは、ボンボンだから。」でも触れましたが、過疎化の中で、「現場」からは僧侶の資格取得を軽減する要望が根強くあります。
私もそれはあって良いと思いますが、一方で出家教団としての本質が失われてはならないと思います。
そこで僧侶の資格カテゴリーを2つに分けてはどうか。つまり、「葬式仏教」の現場の担い手のグループと、聖僧や師家を目指すグループです。
おそらく数的には前者が多くなりますから、彼らに対しては資格取得を軽減して、数的にも経済的にも教団の屋台骨を支えることで運営を安定させる。
一方で後者は資格を従来より厳格にした上で、その代わり世事に奔走することなく「聖の行者」としての行事綿密な日常を全うする。教団としてはこれを内包することで、本来の宗意安心も確保でき、結果的に教団の「在俗化」を防ぐことにも繋がり、更に「葬式仏教」の謗りを受けなくて済みます。これによって、両極が互いの立場を尊重できるような気がします。
ただ、昨今の過疎化によって前者の担い手自体が少なくなっているのが、今般の大きな問題点とも言えそうです。
「クウガ」20周年にもよおす感興を、教団運営の妄想にまで繋げてみました👍
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