修行できるのは、ボンボンだから。

昨日、曹洞宗総合研究センターによる諮問機関「過疎化に対して曹洞宗教団が取るべき政策の在り方」の現地聴き取り調査が、島根県第二宗務所で行われました。


私も宗務所の役職員として参加して、みなさんの意見を拝聴していましたが、その中で「寺院の後継者不足の問題」について、住職の資格が取りやすいように条件を軽減するべきとの意見がありました。零細寺院では兼職をしなければ生活できないので、長期の僧堂修行は難しい、というのが理由です。

ここまではよくある話の展開なのですが、その後、どなたかが次のような発言をされました。

「本山で長い間修行できるのは、(経営規模的に)大きいお寺の恵まれた環境だからで・・・」


あー、また出た。「現代の五夏闍黎はボンボン」説。


実は、最近もある僧侶の方から同じことを言われていました。五夏ではないにしろ、3年7ヶ月永平寺にいた私は、「ボンボン」だというのです。就職しなくても困窮せず、師寮寺を今すぐ継ぐ必要もない、そんな「恵まれた」環境だから、修行ができたのだと。

まあ、自分でそう思うならともかく、とっさに他人から言われると、あんまりいい気はしません。


後継者不足を問題にするのも、現場レベルの生活実感を上申するもの良いとして、それがなぜ、長期の修行歴を貶める言動に向くのか。


要はここに「出家教団」としての歪みがあるのです。「修行が厳しい」ことが売りの聖道門の曹洞宗が、僧堂修行の意味そのものを軽くしたら元も子もない、と私は思うのですが、現場レベルで檀信徒の安心に即応できなければ、それはそれでナマクラ修行と見なされます。妻帯も肉食も飲酒も、そんな現場至上主義の方便にされています。


そう言えば、修行が終わって地元に帰ったら、先輩僧侶に「3年いたからって、現場ですぐ通用すると思うなよ」と藪から棒に言われたことを思い出しました。なんの予防線かさっぱりが分からない上に、そんな言い方をする人に限って、檀家さんとのトラブルを起こすのですが。


後継者問題を語る前に、高田道見老師の「三根平等の安心」に学んだ方がいいんじゃないですか?(副住職 記)

宗淵寺/願興寺

島根県松江市にある曹洞宗寺院・臥龍山宗淵寺と、境内に奉祀されている出雲観音霊場第二十三番札所・新美山願興寺からのお知らせや山内行事の報告、さらに住職や寺族、檀信徒の日暮らし、心にうつりゆくよしなしごとを、そこはかとなく書きつづっています。

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