隠岐島久見の久養寺
一昨年の平成30年10月11日から12日にかけて、宗務所で隠岐の島町の現地視察研修を開催した時のことです。
隠岐の護持会のみなさんとの懇親会の席で、翌日に『久見竹島歴史館』に向かうことを伝えると、医光院の檀信徒で、西郷港の近くで『旅館松浜』を経営されている齋藤芳夫さんから、「久見には曹洞宗のお寺があります。久養寺と言います。住職はいませんが、建物が残っているはずです」と仰いました。
齋藤さんは篤信者として島内の歴史や巡拝路にも詳しい方です。豊中の東光院で紹介した「あごなし地蔵」の、隠岐都万目にあるお堂を最初にご案内下さったのも齋藤さんでした。
また、その日の研修会で隠岐の島町教育長(当時)の村尾秀信さんから教示された資料にも、江戸後期には旧穏地郡(当時の久見地区を含む郡域)に曹洞宗寺院が2ヶ寺あったとの記載があったことから、そのうちの1ヶ寺が齋藤さんの仰る久養寺であろうと思い、折角久見に行くのだから、合せて視察することになりました。
翌日に『久見竹島歴史館』で久養寺のことを訊ねたところ、受付の女性は地域外から嫁がれてきてご存知ないとのことでした。しかし夫君が区長で地元出身ということだったので、わざわざ呼び出して頂き、突然の来訪にも関わらず、区長さんに久養寺を案内して下さいました。
『歴史館』から歩いておよそ100mほどの場所に、雑草木に被われた石段がありましたが、鬱蒼と伸びる草木に視界を阻まれ、下からは堂宇を確認することはできませんでした。
草木をかき分けて石段を上った所に、確かに本堂がありました。
中に入ると、雨漏りした部分の下の座が腐って抜け、畳は白けて、長年人心から見放されたと感じさせる古色蒼然さを伺わせる一方で、磬子や木魚といった仏具はそのまま残り、須弥壇上の幕や奉納されたであろう折り鶴は、経年の色褪せを感じさせない鮮やさが目を引き、意外と廃墟感を感じない印象。高々と生い茂った草木が、逆に日光を遮ったからかと思われました。
見ると折り鶴は昭和53年の奉納と書かれ、また須弥壇幕には昭和60年の奉納年と共に、施主名に「橋岡重忠」とありました。
堂内の形状をみた同行寺院の方からは、「元々は真言宗だったのではないか」と指摘がありました。
棟札や寄付単の記載から、本堂を昭和三十三年に「再建」したことが分かりました。
おそらくですが、ここは住職が常住するお寺ではなく、いわゆる「兼務寺院」として登録されていたかどうかも分かりませんが、お寺で行持がある時は、完全寺さんが今津から出向かれてお勤めをされていたのではないでしょうか。
区長さんのお話だと、久養寺は廃仏毀釈で一旦廃寺になったが、その後に地区内で良くないことが続き、そのことを案じた人々によって再興されたとのこと。区長さん自身、子どもの頃はよく境内で遊んでいたが、ここ数十年は地域に住みながらも荒廃を看過していた、とのことでした。
その後に再び『歴史館』に戻り、絵本『メチのいた島』の作者・杉原由美子さんの読み聞かせを拝見しました。『メチのいた島』は、杉原さんが久見に帰郷後に、地区の伝統だった竹島での漁猟の実態を、後世に伝えるために私財を投じて作ったものです。
読み聞かせの後に、杉原さんにも久養寺のことを聞いてみました。すると、「久養寺は、橋岡家が私財を投じて建てたお寺で、住職はいないので、橋岡家が管理し、鐘も撞きに行っていた(定めた時を知らせる鳴鐘か?)」と教えてくれました。杉原さんは橋岡家のご親戚でした。
その時に私もハッとなって思い出しました。
須弥壇幕の施主である「橋岡忠重」とは、当時竹島での漁業権を持っていた『竹島漁猟合資会社』の経営者として、先ほど見学した『歴史館』の展示物でもその名前が紹介されていた、久見地区の有力者でした。
つまり今残る久養寺の堂宇は、橋岡家が竹島漁猟で成した財によって建てられた(再建された)ものだったのです。
橋岡家の嫡流は現在は久見にはお住まいでないようで、管理者がいなくなった久養寺は、そのまま山林の草木に埋もれ、人々の記憶からも失われつつありました。
何かの導きがあったのか、たまたま今回、私たちは貴重な遺構と巡り合うことができました。この機縁が今後更に繋がって、もしこのお寺が復興できて、過去を学び戒慎する場になったなら。そんなことを希望せずにはおれませんでした。(副住職 記)
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