映画『典座ーTENZOー』の感想①
当地の宗務所主催による映画『典座ーTENZOー』の上映会が、今週の木曜日に行われます。企画者は、教化主事を拝命している筆者ではありますが、この映画を製作した全国曹洞宗青年会(以下、全曹青)の現会長は、当宗務所管内 安来市・宗見寺住職の原知昭師(製作当時は副会長)です。
現在は映像ソフトの一般販売も開始され、上映活動としては周回遅れの感も否めませんが、原師を始めとして、過現を問わず多くの出向者を抱えながら、これまで管内の寺院や檀信徒に向けた上映がなかったのを惜しいと考えて、今回の上映会を企画しました。
この映画の概要については、下記リンク先をご参照ください。
かく言う筆者も、過去に全曹青出向経験があり、かつ、この映画の主役の一人である倉島隆行師とは、修行時代の同安居で、全曹青でも活動を共にしていたこともあって、筆者なりの感想も少なからずあるので、今度の上映会の個人的な予習として、本稿をまとめさせていただきます。
以下、長文のため常体で書き殴ることを、はじめにお詫びしておきます。
『典座ーTENZOー』という題名
筆者は、まだ一応いずも曹青に籍があるが、来年には定年になり、後進もめざましい活躍をしているので、出る幕もなく曹青会員としてはほぼ開店休業状態。
この映画についても、全曹青の元職ではありながら、製作の過程にも関知せず、本来なすべき支援も十分果たしていない上に、しばらく鑑賞すらしていなかった。
そういう薄情な元職ではあるが、すでに映画を鑑賞した人からの感想が、いくつか耳に届いていた。
関東に住む親戚(映像関係の仕事に従事)からは「映像美に魅了された」との好意的な反応を聞いた一方で、身内である僧侶からは、あまり威勢の良い感想は聞こえてこなかった。
一番多かったのは、「どこが〝典座〟の映画なのか、分からなかった」というもの。
もしそれが本当なら「看板に偽りあり」、もはや詐欺的とすら言えるが、実際に鑑賞すると、確かに分かりやすい意味では「典座」の要素は目につきにくいかもしれないが、看板に偽りがあるとまでは感じなかった。
むしろ、「どこが〝典座〟の映画なのか」という感想こそ、「典座」というワードの狭義にだけこだわり、表層しかなぞっていないのではないか。
この映画で「典座」とは、僧堂の役職の説明や禅書の解説、調理のスキル、グルメな坊さんの自意識のことを言っているのではない。
「五観の偈」や祖師の教えに基づく生き方、すなわち食が鎹となる命の循環を象徴している。その意味では、「典座」とは我々にとって仏祖道の一部かつ全体である。
映画に描かれる僧侶は、意識的に食を通じて日常を営み、青山老師からも食に関する教示を受け、自身の生き方を見つめている。
さらには各章題に「六味」を当て、「人生の酸いも甘いも」のメタファーっぽくするという、映画的な流儀も踏まえている。
この映画が「典座」を名乗ることに、何の差し障りがあるのだろうか。
伝え聞いたところによると、元々は狭義的な「典座」をテーマにした短編の予定で製作を始め、途中から中長編に企画を改変したため、当初よりプロットが増えたらしい。
もしかしたら、その時点で改題していれば、宗門の内輪受け的には良かったかもしれないが、改題しなかったとしても、私は主旨がずれたとは思わない。
演技の巧拙
これも宗侶から聞かれた感想だが、とにかく演技が「素人」だという。
当たり前である、本当に正真正銘の素人が演技したのだから。
これで「俳優が演じました」と言えば、観てる方も腹も立ちそうだが、最初から「素人が演技する」触れ込みのものなのだから、むしろ「堂々たる素人演技」と受け止めなければ、物語は前に進んでいかない。
確かに私も、画面越しに既知の倉島師が演技しているのを観て、最初は「壮大な余興」を見せられている感があり、少し気恥ずかしい思いがあったのは確かだ。
ただ、私の知る限りではあるが、彼の演技の振り幅はとても大きい。
主役である二人の僧侶は、「持つ者」と「持たざる者」の対比として描かれている。
河口智賢師が演じた前者は本人が下敷きとなったキャラクターなのに比べ、倉島師が演じた後者は、取材して造形はされているが創作されたキャラクター。
しかも倉島師は舞台となった福島在住ではなく、実際の彼は三重県随一の巨刹の住職。決して「持たざる者」ではない。
これは全くの想像だが、仮に「素人演技」への批判があると想定して、製作当時の全曹青の会長であり、映画のプロデューサーでもあった彼は、自身が全くの創作である人物を演じることで、その批判を甘んじて受け止める覚悟だったのかもしれない。
いずれにしても、「余興」以上の熱演をしている彼を、私は鼻白むことはできなかった。
実際に海外の上映会で、堂々たる体躯の彼が、泥酔して軽トラの荷台で窮屈そうに、ゴロンと寝転がるシーンが好評だったと聞く。
天を仰ぎ、星を見る間もなく意識を失う時だけ、絶望から解放される彼の心情が、表現として言外に伝わったからだと思う。
もっとも、この「素人演技」問題は、フィクションとノンフィクションが綯い混ぜになった映画の構造によるところが大きいと思われる。
聞くところによると、映画のクライマックスで「ラスボス」よろしく登場する青山俊董老師と、自身の疑団をぶつける河口師との独参は、実際の製作上のスケジュールでは一番最初だったそうだ。
このシーンを核として映画は構成され、それまでの過程を再現するのに、仮に別に役者を仕立ててしまえば、クライマックスであるはずの独参が、途端に「嘘」になってしまう。主人公は、あの二人が演じるしか選択肢はなかったのだ。
また、元々この映画は、2018年に日本で開催された『世界仏教徒会議』での上映を見込んで企画されたものだそうだ。
だとすれば、拙いかもしれない台詞回しも、ネイティブでない観客には、さほど気にならないかもしれない。
そして何よりも、主役の二人が劇中に唱える読経と御詠歌は、間違いなく「本物」。プロの演者と言えども、決して再現できないレベルの発声と節回しである。
これまで、『ファンシィダンス』でも映画『禅』でも、読経シーンになると、途端にそれが演者にとって日常の営為でないことがバレバレだったが、「本物の読経」を映画館の音響で聞き浴びることができるのは、特に海外向けの視聴には大きなアドバンテージではなかっただろうか。
以上、個人としての感想ですが、これとは別に、不束ながら「全曹青の元職」としての評価軸があります。ただ、思いのほか文が長くなったので、その点は稿を改めます。(住職 拝)
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