「新しい生活様式」と法事のお斎

政府は4日、新型コロナウイルス(COVID-19)の感染症対策として、当初5月6日までとしていた緊急事態宣言の期間を31日に延長することを正式に発表。

合わせて、いわゆる「専門家会議」は、新型コロナウイルスが今後も存在することを前提として、国民が今後実践すべき「新しい生活様式」について提言しました。


以前から言われていた、生活防疫のために、①密閉空間 ②密集場所 ③密接場面を避ける合言葉「ソーシャル・ディスタンス」。

「ソーシャル(social)」とは「社会的」という意味ですが、個人的にはこの言葉は「誤解」を生む言葉だと感じていました。

いわゆる「三密」を生みやすい従来の葬式や法事が、「社会的に不適切」な催しと受け取られかねないからです。

ですから、「ソーシャル・ディスタンス」ではなく、「フィジカル・ディスタンス(物理的距離)」と唱えてほしいな、と個人的には感じておりました。


このウイルスをこの世から根絶することは難しい。ワクチンが開発されるまで数年、集団免疫を獲得するには10年かかる、との指摘もあります。

仮に、今回の疫禍が一旦収まったとしても、第二、第三波に見舞われるかもしれない可能性は、過去のスペイン風邪流行の事例からも、十分考えられることです。

そうすると、私たちは、このウイルスと一定期間「共存」しながら、日常生活を回復する手段を考えなければいけません。

このような考え方を「Withコロナ」と言うそうです。

そして、この言葉が最近聞かれるようになってから、「アフターコロナ」という言葉は聞かなくなりました。


先の「新しい生活様式」も、その「Withコロナ」時代の生活様式として提言されたものですが、その中で以下のことが挙げられたことで、私は少し困ってしまいました。


「食事」
対面ではなく横並びで座ろう
料理に集中 おしゃべりは控えめに
お酌 グラスやお猪口の回し飲みは避けて
「冠婚葬祭などの親族行事」
多人数での会食は避けて


これはすなわち、法事自体よりも、その後席である「お斎(とき)」が、しばらく出来ないことを暗示しているからです。


基本的に、当寺ではお斎・後席は、ご案内があればご一緒させて頂くことにしています。私どもにとって、お斎は法事の一環であり、かつ貴重な情報収拾と社交の場だからです。

それが、横並びで面壁して無言で席に着くお斎など、シャレにもならない光景です。

でも本来、修行道場での食事は、一人一畳分与えられた生活スペースで、黙って食べる訳ですから、「新しい生活様式」を昔からしていた、とも言えますので、それはそれで皮肉に感じます。



法事の後席について、私は以下の意味があると思っています。


一つは、「共同飲食(共食)」。神式の「直会(なおらい)」に近い意味合いです。

直会では、「神人共食」といって、祭事の後に御饌御酒(みけみき)を神職や参列者一同で戴き、神と人、人と人が互いに親密さと結束を強めることを目的としますが、仏事の場合、神が仏や祖先に代替すると言えます。

同じ調理場、同じ釜の火、同じ食材を体内に取り込むことは、同じ体と心を部分的に共有するにも等しい関係になります。

「三三九度」や「固めの杯」の他、結や寄合、地域などで宴席の場を持つことも、基本的には同じ意味合いだと思います。


次に「食物分配」です。

「食物分配」は、弱肉強食の方法ではなく、例えば親が食事を作って子に食べさせることです。

分配者が自身の利を分けて、被分配者が利益を得ることで、この利他的互恵関係が、両者の親密さを強めるという意味で、共同飲食にも似た意味があります。

施主が参列した親族らに食事を振る舞うことは、両者の信頼関係をより強くすることになります。


次に「お斎」です。

お斎とは「設斎」とも言って、在家が僧侶に食事(本義は昼食)を施して供養することで、古くは飛鳥時代から奈良時代にかけて、天皇家が施主となって宮中祭事として執り行った例も見られます。

主にお盆に執り行われる「施食会(せじきえ)」も、この設斎供養の一つと言えます。

これには上記の食物分配と同じように、施主が自利を僧侶に「布施」する意味があります。

ですから、後席の名称として「お斎」と言う場合は、そこに必ず僧侶が同席しなければいけない、と言うことになります。

また僧侶は、お斎をご一緒することで、そこの親縁関係に少なからず立ち入ることになり、親戚ではないけれど全くの他人でもない関係を、施主と取り結ぶことになります。


また、後席のことを「精進落とし」とも言いますが、これは一定期間の精進潔斎で喪に服した後、社会生活に復帰するために、あえて酒肉を摂食するという意味合いです。「直会」の語源を「なおりあい」とし、精進落としとほぼ同義だとみなす説もあります。

現在の服喪忌中はそこまで厳密に為されていないことを踏まえると、私はこの意味合いは薄いと見なしています。


最後は、上記した通り「懇親と語らいの場」であるということです。

私は原則として、お斎に着くのは「1時間前後」と決めています。基本的には親しい縁者同士の関係を深める場だと思っているからです。

ただ、その限られた時間で、施主や親戚の方のお話を聞くことで、それぞれの人となりや関係性が分かります。

よく、専門家に必要なのは、対象との「2、5人称」の関わりと言います。

僧侶の場合で言うと、檀信徒に対して、全くの当事者という訳にもいかないが、赤の他人である第三者でもない「2、5人称」の感情と立場を持つことが、仏事を司祭する上では非常に重要です。その立場を養うのが法事であり、さらにお斎によって親縁の輪に入らせて頂くことで、「2、5人称」はより円満に近づきます。

特に昨今は、親子や親戚の日常での行き来が少なくなり、慶事か弔事にしか、親戚が一堂に会することがない場合も多くなって、逆に法事の後席(お斎)が機縁の場としてより大切にされている面もあります。


現代の寺院を揶揄して「葬式仏教」と言われることがありますが、むしろ葬式仏教を大切に行じるために、檀信徒との普段のお付き合いが大切であり、これまでお斎は、その潤滑油でした。


「Withコロナ」の時世を控え、お斎を通したお付き合いが制限されてくるとなると、私どもとしても働き方改革や行動変容をして、できなくなったことを別の手段で補いながら「2、5人称」の立場を維持していかなければなりません。

「2、5人称」を失って3人称、完全なる第三者になった時、私どもは心のこもらない葬式法事を型通りにこなすだけの日常となり、菩提寺に対する檀信徒の距離も疎遠となって、まさに「葬式仏教」が形骸化します。そうならない努力が、一層求められるのです。


ただこれは、コロナによって想定より早くはなりましたが、いずれは来たかもしれない社会の変化であったかもしれません。

近頃は、若い人を中心に「呑みニケーション」が成立しなくもなってきました。


これからはお斎だけに頼らないような懇親と情報交換を、試行錯誤したいと思います。(副住職 記)

宗淵寺/願興寺

島根県松江市にある曹洞宗寺院・臥龍山宗淵寺と、境内に奉祀されている出雲観音霊場第二十三番札所・新美山願興寺からのお知らせや山内行事の報告、さらに住職や寺族、檀信徒の日暮らし、心にうつりゆくよしなしごとを、そこはかとなく書きつづっています。

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