布施的コミュニケーション

先日、僧侶向けの研修会で、「コミュニティからコミュニケーションへ」をテーマとした講義を受けました。

過疎・少子高齢化を背景として、檀家制度を下支えする地域社会(コミュニティ)が零細化する中、コミュニティ依存からコミュニケーション力を広げ深める寺院活動への転換を、という提言を頂きましたが、その際に避けて通れなかった話題が、『アマゾンお坊さん便』とお布施についてでした。

参加者同士のグループディスカッションでもお布施をテーマに取り上げましたが、同業ともいえる宗侶同士の気安さから忌憚なく交わされる意見の中では、お布施の内実(額)について、

「地域によって取り決められている」

「これまでのお寺でのお付き合い(の浅深)に依っている」

という声が聞こえました。


これに対して、講師の薄井氏からは『お葬式に関する全国調査』(平成25年株式会社 鎌倉新書調べ)での「実際に葬儀をしてみて困ったこと、または後悔したこと」という質問に対して、具体的回答で一番多かったのが「心付けやお布施の額」の23.8%であったと紹介し、「お布施に〝お気持ちで〟は通用しなくなっている」と指摘されました。


さて、そもそも、仏教で言う「布施」とは六波羅蜜の一つ、つまり「広く施す」という修行徳目であり、見返りを求めない善行です。そして、手段や目的によって「法施」(僧侶による法の施し)、「財施」(在家による財産の施し)、「無畏施」(人を災厄から救い、畏れを除くための施し、対処)の3つに分類されます。


今、私が強く思うのは「無畏施」についてです。

寺院に居住して「財施」に生活の基盤を依っている僧侶(とその家族)と、「法施」の内実に不案内である檀信徒の間で、互いに「畏れを無くす」配慮が抜け落ち、もはや布施的コミュニケーションが成立していないように思われるのです。


少なくとも先のアンケートから、一般在家にとって所謂「お布施」は「無畏施」になっていない、むしろ不安を喚起するものになっている現実を、僧侶としてよく銘記する必要はありそうです。「お気持ち」が一方通行になったら、それはただの片思いにしかなりません。


両思いになるために、その具体的な手段としてお布施額の明示や檀家制度の見直しなどもあるかもしれません。ただいずれにしても、どちらかが一方的に何事かを決めて為すのではなく、互いに興味を持ち合い、その存在を理解しようと努め、コミュニケーションした結果の手段を講じる必要があるではないでしょうか。


最後に、お布施についてお互いを知る為のデータを付記しておきます。あくまでも曹洞宗が調べたデータであることをご承知置き下さい。

まず、宗侶の側。平成17年発行の『総合宗勢調査』では、曹洞宗寺院約1万4千ヶ寺の平均年収は564万円。そのうち半数以上が年収300万円以下です。葬儀の平均布施額は21万6千円と算出されています。ちなみに日本人の平均年収が530万円ほどと言われています。

あくまでも全国平均ですので、寺院格差を踏まえると、筆者の感覚では、当地島根県では上記の7〜8割程度か、それ以下の算出額だと思われます。

次に檀信徒の側です。平成24年発行『曹洞宗檀信徒意識調査報告書』では、「『葬儀は要らない』への賛否」という調査では、反対が65.8%なのに対して賛成は5.6%。

「自分の葬儀への希望」の調査では「仏教式の葬儀をしてほしい」が71.2%。

そして「葬儀の布施額の決め方」に関する調査で「遺族と寺院で相談して」が最も多く33.1%、「遺族の気持ち」が26.6%、「世間の相場に即して」が24.2%、「寺院に決めてもらいたい」は13.1%です。

また、両報告書共通の調査で、「今後の寺檀関係について」の質問に対して、「檀家制度は存続する」と答えたのは、宗侶32.6%、檀信徒が43.1%。

「個人の信仰に基づいた関係になる」が、宗侶25.6%、檀信徒が15.3%となっています。

両者が望むのは、円満で限りなく永続的な供養。そして、そのためにどんな布施的コミュニケーションが必要か。みなさんはこのデータを見てどのように思われますか?(副住職 記)

宗淵寺/願興寺

島根県松江市にある曹洞宗寺院・臥龍山宗淵寺と、境内に奉祀されている出雲観音霊場第二十三番札所・新美山願興寺からのお知らせや山内行事の報告、さらに住職や寺族、檀信徒の日暮らし、心にうつりゆくよしなしごとを、そこはかとなく書きつづっています。

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