誰がために、流れ焼香。
山陰特有のニューノーマル
「流れ焼香」という言葉をご存知の方は、おそらく山陰地方に在住か、もしくは縁者が居られる方でしょう。
当地でコロナ禍をきっかけとして主流となった葬儀の参列方法で、家族葬で行う際、一般会葬者が葬儀や告別式とは別に決められた時間帯に焼香することです。
そして事情がなぜかはわかりませんが、実は流れ焼香は山陰(雲伯)地方に限定された葬法で、他の地域ではその言葉や概念すらありません。
先に本稿の結論から言います。
もはや「流れ焼香」は見直すべきではないでしょうか。
「流れ焼香」定着の経緯
以前から当地では「流れ焼香」がありましたが、大規模な団体葬で会葬者数が5、600人を超えるなど、本葬告別式の時間内で焼香が収まらない場合の葬法だったようです。
やがてコロナ禍で人流が制限されるようになると、「家族葬」が一気に主流となりましたが、当地ではまだ地縁が根強かったこともあり、家族以外の弔意を受け付けるための手段として、中小規模の葬儀でも「流れ焼香」が採用されました。そしてその対応のため、ご遺族は葬儀の前から式場に立つことになりました。
現在ではコロナが理由となる制限は(実質的に)ないはずですが、家族葬と流れ焼香の組み合わせはすっかり一般的になりました。
「家族葬」の定義?
そもそも家族葬の定義とはなんでしょうか。
「家族」とはまことに「取り扱い注意」な用語で、現在では法的な語彙としては明確になっていませんが、それに近い用語で「血族」と「姻族」があります。
その一方で、現代では法律婚によらない「家族」のあり方も多様性の一つでしょうし、「家族同然」の付き合いをする他者もいるでしょう。またペットが「家族」だと唱える人だっています。
現代において、家族か否かの「線引き」は、実に曖昧で、他者との共通認識が難しくなっています。
なので一概に「家族葬」と言われても、何をもって家族葬とするか定義が難しいのです。
以前「家族葬で行います」と言われ、せいぜい3、4人だろうと思って葬祭会館に行くと15人位が一般葬用のホールに参列されていて、大いに戸惑ったことがありました。
その体験から、現在当寺では家族葬か否か関わらず、参列者が15名を超える場合には、必ず脇導師をつけるよう、喪主にお願いしています。
おそらく本来はコロナ禍以前からあった「小規模で行いたい」という潜在性が、コロナ禍を経てそれ以降も需要と供給として持続しているのでしょう。
そして当地では家族葬に流れ焼香がパッケージされ定着しつつあるようです。
「流れ焼香」という名称
「流れ焼香」とは一体誰が名づけたのか、その真意は分かりませんが、例えば、陸上部が「グランドを流す」というと、本気で走らないことを標榜し、実際にそうすることです。
この「流れ」という語彙をあまりよく受け取らない層も一定あって、そのため別に「随時焼香」「時間差焼香」と言ったり、出雲市平田地区では仏教会からの申し合わせで「式前焼香」とも言っています。
誰のための「流れ焼香」なのか
流れ焼香は、コロナ禍では止むを得ない選択だったと、私も思います。
ならばコロナ禍が終われば従来の一般葬に回帰していいはずですが、実際はその後も定着しつつあります。なぜでしょうか。
最も大きな理由は、上記の通り「家族葬への需要と供給の高まり」だと思います。
しかし、従前より規模を圧縮し、その分ご遺族が葬儀かかる労力を減らして故人を偲ぶ時間を物理的にも質的にも増やすのが家族葬本来の目的だったはずですが、今では親戚も多く集まり、かつ流れ焼香まで行うことで、さほど一般葬と変わらない規模になっている上に、以前のような隣保のお手伝いもないため、むしろご遺族の労力が前より増えているのが実態です。
これはある葬儀社さんに聞いた話ですが、一般葬において完結していた会葬者の受付〜焼香〜お見送りの一連が、本葬と流れ焼香を別にしたことで、結果的に葬儀全体にかかる時間は増えているのだそうです。
確かに先日のある葬儀でも、流れ焼香で指定された時間の30分以上前から会葬者が来場したため、会館スタッフもご遺族も慌てて対応している様子を見ました。
葬儀が七日法事の予修も含めておよそ1時間30分。そのおよそ1時間前から流れ焼香。およそ3時間以上、ご遺族は式場に張り付くことになるのです。
また会葬者の中には、故人を偲びきちんとお見送りをしたくて行ったのに、流れ焼香だったためにわずか数分の会葬になったのが残念、という声もあります。
何より僧侶の立場からすると、仏式の葬送において肝心かなめの本葬自体を会葬者に「スルー」されるのは看過できません。私が聞いた限り、僧侶で流れ焼香を推奨している人は皆無、それどころか「もうやめた方がいい」という意見が大半です。
それにも関わらず、今も多くのご遺族は「流れ焼香」を選択されています。
ご遺族からしたら、「華美にしない」という小規模葬の希望に加え、一般会葬者を葬儀の一定時間「足止め」するのは忍びないという「配慮」もあるのでしょう。
一方の一般会葬者は、多くにとっては短時間で会葬できて合理的であり、むしろご遺族にそれを求める機運すらができつつあります。実際に先日の当寺先代住職の葬儀でも、流れ焼香を設定しなかったにも関わらず、受付に「流れ焼香はどこ?いつ?」との問い合わせがありました。
そして、一部の故人を偲びたい他者も「ご遺族が家族葬を望むなら」という諦めから、流れ焼香に甘んじています。
「忖度」や「同調圧力」でこんがらがった、現代の「コンプラ案件」みたいな構造に陥っている上に、実際にはご遺族に負担が増えるという「本末転倒」が生じ、さらにはコロナ禍で「やむを得ずできない」ことだったのが「しなくてもよい」ことにすり替えられ、「易きに流れる」の所産として定着しつつあるのが、現在の流れ焼香だと、私には映ります。
「ニューノーマル」にするならば
そうは言っても、かつての数百人規模が会葬した一般葬の時代に回帰するのが最善とも思いませんし、家族葬や小規模葬を希望する流れは止まらないでしょう。
しかし百歩譲って、「流れ焼香」が忙しい(当地の)現代人にとって「時代の流れ」や要請だとするならば、せめてその場にご遺族を立ち合わなくて良いようにしてほしい。もしくは葬儀中席につかずに焼香して帰ってもらってもいい(仕方ない)ですが、その際はくれぐれも慎ましく静かに所作してほしい。
そして、葬儀で故人やご遺族と偲びの時間と空間を共有したいと願う心ある会葬者のための席も、一定数用意して欲しいと思います。
本葬後に引き続き七日法事を行うのも、本義からすると勧められませんが、すっかり慣習として定着したのは、その必要性があったからだと思います。
「流れ焼香」も本当に必要性があれば、今後も残るのかもしれません。
死別には誰も傷を負います。その軽重は人それぞれかもしれませんが、ご遺族が最もケアされるべき存在であることは言うまでもありません。でも中にはご遺族同様とまでいかないまでも、相応に傷を負う他者もいるでしょう。
できる時に適切な手当をしなければ、傷はますます悪くなる。個人的に、その処置の一つとして葬儀は執り行うものだと思っています。
お釈迦様は「(仏法という薬を)服すと服せざるは医の咎にあらず」と仰っていますが、今のままでは流れ焼香は歪なまま形骸化し、毒にはならないまでも、十分な薬になり得るかどうか。それを看過するのは忍びないし、そもそも一体誰のための葬送なのか。世間様? ついそう思ってしまいます(住職 記)
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