佐々木珍龍老師 〜開拓する禅者〜
【この記事は、曹洞宗参禅道場の会会報『参禅の道』第78号に住職が寄稿したものの転載です】
(『曹洞宗名鑑』より)
今回紹介するのは、以前ご紹介した川口賢龍老師のご本師である、佐々木珍龍老師です。
その動機は実に他愛なく、賢龍老師の記事を書くに当たってそのお名前を散見し、「〝珍〟が入るお名前は、それこそ珍しいな」と。
それで何の気なしにネット検索をかけたところ、最も上位に上がった情報が、戦時下の台湾布教に尽力した、という内容でした。また執筆された刊行物が実に多く、現在でも図書館や古本屋に数多くの蔵書が確認できました。
賢龍老師が取材前の情報が乏しく、その朴訥としたお人柄から、随身から敬愛を込めて「兀坐する近所の爺さん」と評されたのとは好対照の、「派手に立ち回った」行履のようにも映りますが、本師として幼少期から賢龍老師を真弟子・愛弟子として慈育し、大栄寺誌には「珍龍
和尚の懐の中で育てられた」とありました。
珍龍と賢龍。双頭の「禅龍」の綿密なる師資関係について少しでも明らかにできたら、と思いました。
しかし初めにお断りしておきますが、佐々木老師の行履を辿ることは、必然的に戦時下の政教関係に触れざるを得ず、特に今のこの時期にそれを取り扱うことは、実に難しいものがあります。
自称ノンポリの筆者なりに慎重を期して書いたつもりではありますが、もし内容に問題や不見識があれば、賢明な会員読者諸師よりご指導賜りますと幸甚です。
北海道での「開拓」
一八六六(慶応二)年千葉県生まれ。一八七七(明治十)年に安房郡八束村(現在の南房総市富浦町)青木の光厳寺で竹園龍海師に就いて得度。一八八五(明治十八)年に曹洞宗大学林(現在の駒澤大学)を全科卒業、その後光厳寺に戻って首先住職。一八八九(明治二十二)年に北海道寿都郡寿都町の龍洞院に転住しています。
この北海道の地で、佐々木老師は大いに「開拓精神」を発揮します。
大正五年に刊行された『曹洞宗名鑑』によると、樽岸町の法龍寺、黒松内町の洞参寺、島牧郡島牧村歌島の龍巖寺の他、二ヶ所の説教所を「創設せり」と記載されています。法龍寺様のホームページを拝見すると、法龍寺は龍巖寺とともに開山が龍洞院四世の麒嶽洞麟大和尚、佐々木老師は二世として列せられています。ただ法龍寺様の山号が「耕雲山」、寺号公称が一八九一(明治二十四)年とありますので、寺格取得に当たって主導したのが佐々木老師だったことが伺われます。そして黒松内蕨野の原野七十二町歩を開墾して寺基を潤わせ、公共事業にも多額の寄付をして、官庁から十数回の賞賜を受けました。
一九〇五(明治三十五)年には、現在の寿都高等学校の前身となる寿都実業女学校を創立した他、函館の高龍寺が同市地蔵町で運営していた吉祥女学校の創設にも関与されたようです。『函館市史』によると、当時遅れていた女子教育の不備を補ったのが宗教関係者で、函館はプ
ロテスタント系のキリスト教がその嚆矢となり、仏教系もこれに触発されて女学校の開校に取り組んだ、とあります。国策や社会資本の「不備」を宗教が補填する政教関係は、戦時下での植民地でも同じ構造が散見され、佐々木老師にとっては、この北海道での経験が、後の海外布
教で活きたのかもしれません。
台湾での布教活動
日清戦争が勃発すると、佐々木老師は「従軍布教師」として山東省に渡ります。
そして一八九五(明治二十八)年四月の下関条約によって台湾が清朝から日本に割譲されると、五月には渡台。最初期において台湾総督府に合流した四名の従軍布教師の一人(曹洞宗は佐々木老師のみ)として現地調査を開始。艋舺龍山寺を実質的な末寺化して拠点としたのを手始めに、南進軍に従軍して各地の寺廟と末寺誓約を締結、十二月には一時帰国して現況を報告します。
台北・艋舺龍山寺(©️台湾観光局)
これを受けて、曹洞宗は、全寺院から布教資金を徴収するなど巨費用を投じた台湾布教案を取りまとめ、「台湾島布教規程」を制定。布教師や開教師を積極的に渡航させ、現地寺廟との末寺誓約、信者の教化、日本語学校の設立などを推し進め(これらは結果として同化政策の一
翼となった)、最終的には台湾全土で百ヶ寺前後を末寺とし、信者も一時的に三、四万人に達したと言われ、その電光石火の如き教勢拡大を目の当たりにした他宗の布教師が自教団の出足の遅さを悔いた、と伝えられています。
佐々木老師自身は一九〇一(明治三十四)年末まで台湾と内地を行き来しながら布教活動に従事、この間、僧俗を含む超宗派の団体「大日本台湾仏教会」の組織、仏教会館や裁縫学校や施療院の開設、仏教雑誌の創刊と流布などにも尽力します。
一時帰国した際には、青年僧侶の求めに応じて日清戦争時の様子と台湾の概況について講演。その内容は一九〇〇年に『従軍実歴夢遊談』(鴻盟社)と題して上梓され、今も台湾併合時の資料として宗門の内外で取り扱われています。
師家として、能弁家として
帰国後、新井石禅禅師(後の總持寺独住五世)の後を継いで新潟県大栄寺第二十九世として晋山。持ち前の「開拓精神」を、今度は僧堂での行履と雲水への接化に発揮されます。
参禅弁道は言うに及ばず、宗乗余乗漢籍を熱心に指導し、加えて普通教育も施して、雲水は常に百名を下らず、その寺勢は両本山や大学林に引けを取らなかったと言います。
『曹洞宗名鑑』は、佐々木老師をして「宗門第一流の能弁家にして説法の巧妙なる」と評価。また文筆にも長じ、大著小編を問わない精力的な多作ぶり(講演録を含む)は、同じ明治期に「出版布教」に尽力された高田道見老師を彷彿させるものがありました。
ただし、あくまでも筆者が眼にした限り、著作の内容は「戦時下の色濃い」、と言わざるを得ません。
従軍布教師としての功を踏まえるとさもありなん、自称ノンポリの筆者でも分かる明らかな皇国史観、一仏両祖や両本山を皇室や貴種と積極的に結びつけた権威づけは、今読むと正直「辛い」ものがあります。
著作に通底した基調が「社会道徳」の敷衍、そして「四恩説」です。
佐々木老師が強く説いた「四恩説」とは、国王の恩、三宝の恩、父母の恩、衆生の恩で、これらへの報恩行が「人道に適う」というものです。
現代においてこれらの言動を評価するのに、言を俟たないでしょう。曹洞宗が一九九二(平成四)年に発表した、戦時下における戦争責任とその後の歴史認識について、教団として総括し謝罪した「懺謝文」では「近代日本の汚辱ともいうべき皇国史観」という異例ともいえる強い論調が見受けられます。結局のところ、佐々木老師の「開拓精神」も明治維新後の国家主義に沿ったものだったと言わざるを得ません。
それでも筆者が佐々木老師を「断罪」できないとしたら、世法への「過度」な順応が当時の宗門の趨勢で、名だたる師家や学僧の多くも大差ない発言をしており、能弁家ゆえの「悪目立ち」があるとはいえ、某師による朝鮮半島布教のような「きな臭さ」までは見受けられず(従
軍したという事実は重いが)、おそらくは現代で言うところの「社会資本としてのお寺と僧侶」を強く意識して奔走した結果ではないか(資すべき社会像が誤りだったにせよ)。そして、自称ノンポリの筆者などは、生まれた時代が違えばその「過ち」に気付かないまま時流に呑まれていたに違いありません。
かつて佐々木老師ほどの高徳でも陥らざるを得なかった過ち。現代の立場からただ断罪するより先に大いなる反面教師としたい。それが筆者の偽らざる感想です。
そして世法だけではなく、仏法へに対する篤い道心も合わせ持っていたであろう証明が、「法丸出しの思わ猿」の真弟子・賢龍老師を打出したことではないか、と思われてならないのです。
戦時下の行履の光と影。現代でもそれを是々非々で評価できたら、と筆者は念じます。
肝心な双龍の師資関係について、本稿では表層をなぞった程度の紹介に止まりましたが、また稿を改めて触れることができたらと思います。
【参考文献】
『曹洞宗名鑑』(安藤嶺丸 編/大正五年刊)
『「宗報」にみる戦争と平和』(曹洞宗 編)『函館市史 デジタル版』通説編第二 2巻
『人と云ふ話』『通俗仏教 家庭講話』
『承陽大師 常済大師 両祖を想ふ』
『禅より観たる般若心経』 (以上、佐々木珍龍 著)
『禅と戦争〜禅仏教は戦争に協力したか』(B・A・ヴィクトリア 著)
『台湾の日本仏教〜布教・交流・近代化〜』(柴田幹夫 編)
『近代の仏教思想と日本主義』(石井公成 監修/近藤俊太郎・名和達宣 編)
『明治期曹洞宗における出版書の研究』 (川口高風 著)
『曹洞宗布教師による台湾仏教調査と「台湾島布教規定」の制定〜佐々木珍龍「従軍実歴夢遊談」を中心に』(松金公正 著/『比較文化史研究』第2号所収)
『日本仏教の初期台湾布教(1)(2)』(中西直樹 著/『仏教文化研究所紀要』53、54号所収)
『台湾の日本統治時代における仏教系雑誌の嚆矢〜「台湾教報」刊行背景に関する一考察〜』
『台湾の日本統治期における日本仏教団の「台湾仏教会」について』(林欐嫚 著/印度学仏教学研究第70号所収)
(文中、一部敬称略)
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