川口賢龍〜坐禅をすれば自然に良くなるなり〜

【この記事は、曹洞宗参禅道場の会会報『参禅の道』第76号に住職が寄稿したものの転載です】


「みなさん、坐禅をしなさいよ。坐禅をすれば自然に良くなるなり、ですよ。」

この言葉の主の名は、川口賢龍老師。かつて新潟県大榮寺僧堂の堂頭や大本山永平寺で後堂を勤められた禅者です。

修行の厳しさとは

この連載記事で何方を取り上げるのか、打ち合わせを重ねる中で、本誌編集長の青野貴芳師がふと触れたのが、川口老師のこの言葉でした。

青野師も筆者も共に、いわゆる「団塊ジュニア」と言われる世代。川口老師ご生前はまだ発心前で直接聞き承ったものではないのですが、青野師は宝慶寺安居当時に、堂頭だった田中真海老師から、次のような述懐を聞きました。

「参学師である川口賢龍老師は、ことあるごとに、『みなさん、坐禅しなさいよ、坐禅すれば自然に良くなるなりですよ』と壊れたカセットテープのようにくり返しおっしゃるばかりだったが、自分が年をとってみると、そういうのが良くなるんだよ」。

川口老師と同時代を生きた永平寺七十八世・宮﨑奕保禅師から、往時の峻厳な修行の様子が窺い知れる説示を賜っていた筆者としては、それとはやや趣の異なる川口老師によるお言葉に、少し意外な印象も受けました。

把住というよりも放行的、対象に自主的な働きを促すような語感の機微を感じ取り、一聴して耳馴染む清風のような余韻が残りました。

筆者は僧堂安居時代、自身が足りない道心を他律的に補っていた経験を、いつしか「他罰」と混同していたことがありました。

その立場からすると、川口老師のお言葉は、筆者を長年縛っていたものから解放するようにも感じたのです。

又聞きを重ねたものが「口伝」になる妙味に触れた筆者は、「ぜひ川口老師をご紹介したい」と編集長に伝えました。

川口老師は師家として十分すぎるご経歴である一方で、自著や聞き書きが少なく、宗門史において特段の金字塔、才気走ったり、大立ち回りの爪痕が残るような事跡はなかったようにも見受けられます。

ただしご生前に随身された方々が今なお多くご健在とあって、直接その方々へ取材することができました。そこから見えてきたのは、正にこの「没蹤跡」とも言えるような行履こそが、川口老師の禅風の真髄ではないか、ということでした。


川口老師の略歴

まず、簡単に経歴を紹介すると、川口賢龍(号 呑海)老師は1829(明治25)年、新潟県中蒲原郡村松町(現在の五泉市)の出身。大榮寺二十九世・佐々木珍龍老師の真弟子(愛弟子)として幼少期から過ごし(大榮寺の寺誌『隆光』には「珍龍和尚の懐の中で育てられた」とある)、大榮寺近くの横越高等小学校から、仙台の栴檀林中学校(現在の東北福祉大学の前身)、駒澤大学を経て永平寺安居。その後大榮寺で僧堂講師や、新津市七日町(現在の新潟市秋葉区)錦繍寺の住職を勤めた後に、1934(昭和9)年に大榮寺三十世住職・僧堂頭となると、50年近い住職歴の中で庫裡、僧堂、法堂の改築などの大事業を果たし、また檀信徒の教化や僧堂での人材育成にも功が厚かったことから、大榮寺重興が追贈されています。昭和61年、92歳で遷化。

その他にも千葉県光厳寺、同延命寺、宮城県常福寺でも住職と勤められています。

永平寺では、昭和22年から副監院、同37年から後堂、同51年から西堂などの要職を歴任されています。


石黒英進老師の証言

今回お話を伺ったお一人目は、新潟県上越市・楞厳寺東堂の石黒英進老師。永平寺では維那や大遠忌局次長などを歴任、現在は川口老師の住職地であった大榮寺の西堂をお勤めです。

 昭和39年に祖山安居された石黒老師は、2年目に後単行寮へ転役。当時後堂だった川口老師が昭和40年の秋解合で下山されるまで、およそ10ヶ月間、行者を勤めました。

 当初、川口老師の浄髪当番だったもう一人の行者が左利きだったのを見て「怖いから代わってくれ」と、石黒老師に交代してもらって以来、当番に関係なく、後堂行者の公務は基本的に石黒老師が担当しました。新潟で同郷だったことも寵幸された理由の一つだったかもしれません。

ある時、他出から帰山する川口後堂を、石黒老師が福井駅まで迎えに行くと、駅ビルの食堂に連れて行き、「なんでも良いから食べなさい」と勧められます。石黒老師が恐縮していると、それを見て「(実の)兄貴に会ったと思いなさい」と言葉をかけ、緊張を解きほぐされました。

昭和40年秋の解合に川口老師が送行される時には、他の大衆が「英進さんも後堂老師と一緒に下りるんじゃないか」と噂するほど、親しく影の如く随身されました。

接賓役寮として、衆寮と等しく行事綿密を専らとしていた川口後堂。

日天作務にもよく出られたそうで、休んでほしい行者が「後堂がわざわざ作務に出なくてもいいのではないですか?」と制止しても「いいから、いいから」と振り切って出ていかれたそうです。

 ある時、集合先の山門頭で、五代杉に寄りかかっていた雲水を見て、

「おいおい、五代杉が倒れるから止めなさい!」

と冗談をいって大衆を笑わすなど、とにかく茶目っ気のある方でした。

暁天夜坐では難しい口宣を一切せず、先述の「坐禅をすれば、自然によくなるなり」の他に「海中に竜門と云ふ処あり」など、短くて分かりやすい言葉で大衆に語りかけました。

持病のヘルニアがあって毎日通院し、医者に止められていても、夜坐を欠かしたことはなく、坐中の姿は、石黒老師曰く「まるで、どこにでも近所の爺さんが兀坐しているよう」。当時、門前でお土産用に、三猿を模した「思わ猿」が売られていたそうですが、「川口老師の佇まいは正にそれ」だったそうです。

 唯一、川口後堂が大衆に強く説いていたこと。それは、互いに呼び合う時には「〜さん」付けをすることでした。「栴檀林に雑樹無し」。道心あるもの同士のお互いの尊崇を示されたのではないでしょうか。

「為せば成る、為さねば成らぬ。成るものを、成らぬというは、為さぬなりけり」。

有名な上杉鷹山による道歌を、川口後堂はこのように読み替え、暁天中光拝で説示されていました。また、

「他はこれ我にあらず。さらに何の時をか待たん」。

もよく引用されました。後堂職にありながらも、祖山安居はご自身にとっても修行の好因縁だったのでしょう。

偉ぶらないし長広舌もふるわない。派手さはないけれど大らかで茶目っ気があり、何より徹底した行事綿密の日常と身業。

そんな川口後堂に魅せられて、後単行寮は、当時の大衆が転役したがる一番人気の寮舎になったといいます。

「後単行寮では、毎日新鮮な朝が迎えられた。これこそ川口老師に随身したお陰でした」。

そう述懐される石黒老師が、参学師でありながら、まるで親しかった「旧友」との思い出を反芻しているかのような柔和相を顕わしておられたのが印象的でした。


清原俊光老師の証言

石黒老師による川口賢龍老師の人物評は、筆者にとっても事前の印象を裏付けるもので「我が意を得たり」といった感がありました。

しかしその後、川口老師の「別の一面」についての証言にも辿り着きました。

かつて大本山永平寺東京別院の維那を勤められた千葉県木更津市・真如寺住職の清原俊光老師。昭和56年の秋、大榮寺安居し、川口老師の最晩年の3年間を随身なさいました。

清原老師は川口老師をして、開口一番「厳しい御前様」だと評されました。

杖をついて歩くコツン、コツンという音が聞こえると、周囲に緊張の糸が張り詰めたと言います。

元来訥弁だったことが、齢を重ねると寧ろ威厳を伴って受け止められたようで、たまにボソボソと、

「なんだかんだ言ってもひとつ事」。

「嫌々やっては計(はか)もいかない。嫌なことも進んでやれば計もいく」。

と仰るお言葉の断片が、余計に重く心に響いた、と清原老師は振り返ります。

 大榮寺では托鉢が日分の行事で、足の悪い川口老師は、自身も托鉢に出たい気持ちを抑えて、出かける雲水たちをいつも見送って送り出していました。

僧堂へ行き来するのに、行者に背負ってもらって階段や単への上げ下げをしてもらっい、「僧堂で死んだとしても、それは本望じゃ」とよく漏らしつつも、行者の介添えに対して、いつも合掌して謝意を伝えていたと言います。

しかし、ただ威光を放つだけではなく、石黒老師が証言された「お茶目さ」や「愛敬」も、晩年まで健在だったようです。

ある日、振鈴当番を呼び出し、「今日は振鈴の時間が遅かった。時は大切なものだ。お前の間違いで山内が迷惑するんだ」と叱りつけ、バンバンバンと、杖で三十棒を与えました。

しかし、実際に時間を間違えていたのは川口老師の方でした。それが分かると、川口老師は自ら振鈴当番に「私が間違っていた。大変ご無礼した」と詫び、深く懺謝をされました。

またある日の法堂で、慣れない新到が叩く木魚をを聞き、「今日の木魚は、あんまり良くなかった」と言って、自ら範を示そうと勢い倍を持ちますが、すでにご高齢だった御身には重たく、思ったように木魚が打てませんでした。「これはなかなか難しい」と独りごちておられたそうです。

清原老師はこれらの思い出を、

「笑い話でもあるが、同時に涙が出るほどありがたい」。

と振り返っておられました。

実は「癇癪持ち」を自認していたという川口老師。それが起きそうな時は首に掛けた数珠を繰って触り、気持ちを宥めていたそうですが、懈怠や不如法に接すると、思わず声を荒げることもあったようです。しかし法に一生懸命な者が失敗しても、それを怒ることはありませんでした。

法に親切な反面、「おそらく、スーパーで卵がいくら売っているか知らなかった」(清原老師談)。托鉢によって摂食する大榮寺の日常に染まりきっているからこその「社会常識の足りなさ」。その両価性が、禅者としてだけではなく人間的な魅力や徳性をより輝かせていたのではないでしょうか。

川口老師にとって禅道場は日常生活の場であると同時に、幼少期の遊び場であり、故郷であり、終の住処。歴代祖師の教えや本師からの法愛を、日々水を飲むように吸収し、発汗するように行じて来られました。

その行住坐臥を余すことなく、言葉よりも行履で大衆に示して教導された。正にご自身が僧堂そのもの。法力が強い、「法」丸出しの方だった。だから何もかもがありがたかった。清原老師はそう評されました。


少なくなる老古仏

その一方で清原老師は、

「今はそこまで法の強い人はいなくなりました」。

と言葉を継がれました。石黒老師も、

「道場で生活をしていれば、老古仏の行履に触れる機会があるかもしれないが、実際の環境は衰微しつつある。師家や僧堂の価値が十分に評価されているとは言えない現状が、道心の人が少なくなったことを反証しています」。

「だから、今日は川口老師の話をできる機会に恵まれたことに感謝しているし、後世の禅者にもっと知ってほしいですね」。

と仰っておられました。

 奇しくも昨年、専門僧堂の認可一斉取り消しに伴う再認可から、大榮寺僧堂が選に漏れた、との情報が伝わりました。

 ここでその是非を問うことはできませんが、その大榮寺で行臥した「法丸出しの思わ猿」の行履が、今後少しでも伝法され、「道心の人」を打出する資けになることを念じて止みません。

宗淵寺/願興寺

島根県松江市にある曹洞宗寺院・臥龍山宗淵寺と、境内に奉祀されている出雲観音霊場第二十三番札所・新美山願興寺からのお知らせや山内行事の報告、さらに住職や寺族、檀信徒の日暮らし、心にうつりゆくよしなしごとを、そこはかとなく書きつづっています。

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