真実と事実と、情実(あるいは故実)〜両本山制に想う〜
「なぜ曹洞宗は本山が二つあるのですか?」と尋ねられた時の最適解とは、一体なんでしょう。
「一水四見」とはよく言ったもので、たとえ同じ事実があったとしても、人はそれぞれの「真実」を通して、見たいもの、なって欲しいものとして解釈し、評価するものです。
先日、「雲国両山会」設立40周年式典がありました。
「雲国両山会」とは、曹洞宗の両大本山、永平寺と總持寺を護持後援するための組織で、島根県東部の宗侶の方々が加盟しています。
実は全国的には永平寺系の祖門会と總持寺系の嶽山会、それぞれ別個に組織され活動するのが「常識」です。
雲国両山会が創立されたの昭和56年当時に、そんな「常識」を覆し、全国的にも珍しい「両本山を等しく護持する」という理想を掲げて組織された諸先輩の意志と英断に、改めて感服するばかりです。
そして更にその思いをより深くしたのが、式典の後に行われた山口正章老師のご講演でした。
長らく總持寺で奉職されていた山口老師ですが、ご自身のお寺は永平寺のお膝元とも言える福井県越前市にあり、修行も永平寺でされたとのこと。豊かな学識と綿密な修行生活を兼備された当代随一の学僧であり、正に両本山制の「象徴」のようなご老師です。
その山口老師から、この度の趣旨に合わせて両本山制の概要と意義についてお話を賜ったわけですが、その中で、従来から永平寺は「曹洞宗の父、如来体、山の高さ」であり、總持寺は「曹洞宗の母、菩薩体、裾野の広がり」であると喩えられてきた、とご教授いただきました。(老師も当日補足されていましたが、かつては通用した父母の喩えも、ジェンダーロールの固定化につながるということで、現代では通用しない可能性大)。
この喩えは、正しく「言い得て妙」。史実をオブラートに包みつつ、それぞれの史観をバランスよく昇華しています。
筆者はその一方で、あまりに言葉の外面が整いすぎてはいないか?実際の両本山の関係はもっとゴツゴツとしていたのではなかったか?とも思いました。
かつて作家の井沢元彦さんとお話しした際、
「曹洞(そうとう)宗は、今でも『騒動(そうどう)宗』なのですか?」
と、尋ねられたことがありました。
「騒動宗」という語句をご存じとは、さすが歴史の表裏を読み解く碩学だと驚いたのに加え、「いいえ、今は違います」とすぐには言えない現実があると思い、私は思わず言い淀んでしまいました。
「騒動宗」とは、実際にあった両本山の対立を揶揄する隠語なのです。
山口老師も仰っておられましたが、両本山制の成立は江戸時代の『寺院諸法度』発布によるもので、それ以前の中世は、両本山制ではなく「多本寺制」でした。各地域に格式の高い本寺が幾つもあり、全国の末派寺院はそのいずれかに所属していました。
当時の資料を見ると、永平寺を「寂円派」、大慈寺を「寒厳派」、大乗寺を「義介派」、永光寺を「瑩山(明峰)派」、總持寺を「峨山派」の本山とみなし、互いに「他山」と称し合ってたことが見て取れます。(正法寺をして「無底派」の本山とはあまり聞こえない。東北本山とは聞くが)
江戸幕府は、その政治理念に則って仏教教団を「ピラミッド型」に統治するため、本山としての格式を永平寺と總持寺に集約します。
山口老師はこの点について「徳川家康(江戸幕府)による叡智」と表現されました。
それがもし、東西に分けた浄土真宗への処置と同じだとするなら、筆者の認識とは少し異なります。
江戸幕府は、まず慶長十七(1612)年に『曹洞宗法度』を公布。その3年後の元和元(1615)年になって『永平寺法度』と『總持寺法度』をそれぞれ公布します。これによって前法が法的根拠を失い、曹洞宗の「両本山制」が成立することになります。
なぜ曹洞宗への法度は再公布されたのでしょうか。
最初の法度には「末寺は本寺の掟に背いてはならない」という趣旨の一文がありました。当初幕府は本末関係の源泉を永平寺に想定したが、当時の実態は「多本寺体制」だったため、宗門内でハレーションが生じたのではないでしょうか。その善後策として、總持寺に本山格を認めた。
多本寺クラスの寺院の中でも總持寺が突出した格式を有しており、永平寺と拮抗していた。両者の間にはその格式の優位性をめぐる「対立」があり、幕府としては仲介して懐柔する必要もあった。結局は宗門所産の事情で「両本山制」という落とし所に至ったのではないか。
なぜ永平寺と總持寺は対立したのでしょうか。
全ては「三代相論」に端を発するのでしょうが、その後に曹洞宗寺院の大半と本末関係になるなど隆盛を極めた總持寺に対して、永平寺は一時無住になるなど荒廃します。
そんな永平寺に対して、總持寺側は物心に渡って援助をします。それほどに峨祖以下の總持寺門下は、宗祖の道元禅師を慕っていた。
やがて寺勢を盛り返すと、永平寺は祖山としての優位性を主張し始めた。
一度没落した本家に、羽振りのいい分家が援助した途端に、本家が威勢を張り出した。一体誰のおかげで持ち直したと思ってるんだ。初代はともかく、本家の当代、なんか気に食わない。
總持寺側の心情を喩えると、そんなところではなかったでしょうか。
長く出世道場としてのお互いの優位性を競う中で、やがてはその根本原因すら分からなくなるほど、対立・分断が固着します。
「他の宗派は分派したが、曹洞宗が分派せず単一でいるのは素晴らしいこと」とのご意見を聞いたこもありますが、実際の両本山制の成立は、決して宗門和合の象徴ではなく、この間の両山対立の一つの臨界点だった、というのが筆者の認識です。
もし山口老師のご指摘が、「分派させず、むしろ単一教団の中で対立状態を保持した方が、教団としての勢いが削がれてコントロールしやすい」という意味を含んでいたのだとしたら、江戸幕府の権謀術数たるや、筆者の拙見など遥かに及ぶものではありません。
次なる時代の大きな転換期である明治になると、總持寺が独立する機運が高まりますが、当時の関係者の尽力もあってか、なんとか沈静します。
明治44年には、伽藍の焼失をきっかけとして總持寺が能登から横浜鶴見に移転します。
江戸時代までは海運の先端地だった能登が、明治維新の影響で加速度的に周辺地化とはいえ、本山が御開山以来の寺基を遠方に移すというのは本来あり得ないことで、大胆かつ開明的な總持寺の家風とエネルギーを示す偉大な事績だと思います。(それにしても絶妙なタイミングで火災が…以下、自主規制)
後発だったはずの總持寺がここまで寺勢を拡大でき、永平寺と拮抗するまでの格式を持ち得たのは、なぜでしょうか。
これについてきちんと語るには、紙幅も筆者の知見も無さすぎるので、詳しくはこちらの資料をご参照いただきたいと思います。
筆者としては、峨山紹碩禅師という凄腕のリーダーとその一門の拠点であり、かつ宗門では圧倒的多数派だった。後醍醐天皇から出世道場の綸旨を、永平寺に先んじて受けた。前述の通り当時としては優れた地の利が得られる立地にあった(天領黒島の歴史が証明しています)、という点を挙げておきます。
兎にも角にも、今はそこまで表立った「騒動」とはなっていないかもしれませんが、今でも両本山が「二大政党制」のようにある種の緊張関係を維持しているのは事実で、宗門およそ800年の歴史のうち700年くらいはそんな状態。そして図らずもそれを証明しているのが、現代での祖門会と嶽山会の存在というわけです。
身も蓋もない言い方で恐縮ですが、両本山制って「大人の事情」の大河ドラマですね。
ただし筆者は、「私たちの両山会こそが唯一の真実」「両本山制は不当だから、今すぐ是正すべき」とか新自由主義的なことを言いたいのでは、決してありません。
文頭の問いかけに戻ると、最近筆者は、両本山制を「ラーメン屋の暖簾分け」に喩えています。
「曹洞宗ラーメン」は、味は間違いないが、店主は気難しいし接客なんて二の次。客も客で「分かってる風」なのが多いし一見さんが入りずらい、知られざる名店。
そこで修行した店主の新規店は、「この味をもっと広めたい」と、マーケティングやコンサルティングを駆使して、ノウハウをマニュアル化し、セントラルキッチンまで作って品質を維持しつつ、全国の店舗で気軽に本店の味が味わえるようなシステムを作って大繁盛した。やがて「本家 曹洞宗ラーメン」と屋号したグループ企業となった。
修行元だった店の方は、方向性の違いから「本家」と一括りにされたくなくて、「元祖」と屋号に加え、客足は伸びないけれど媚びることなく創業の味と精神を守り続けた。
じゃあ、「どっちが曹洞宗ラーメン?」と聞かれたら、「両方」となるわけです。
たとえ元祖が「本家は曹洞宗ラーメンじゃない」と言っても、世間的な認知は「本家以外の曹洞宗ラーメンは知らない」のであり、ホスピタリティも含めて本家に客が訪れる。かといって、元祖の味がなければ、そもそも本家も店を出せなかった。要は相互作用関係なわけです。
矮小化になるかもしれませんが、両本山って結局は「村社会」のことで、そこには村八分や水利の争いなどが生じるものです。でも人々が安住する「村」をそう簡単になくせるものでしょうか。
両本山に対立があるとしたら、それは情実の相異。そこには両本山での行事や慣習、人々による営みの積み重ねという裏付けがある。
今でも時々思い出すのが、大学の時の宗教学の講義。おそらく「なぜキリスト教は科学を否定したのか」という命題について、
「顕微鏡で撮った昆虫の複眼を、未開の地の住人に見せて、『これが昆虫の眼だ』と言っても、『(肉眼では)そんな風には見えない。お前は嘘つきだ』と言われるのがオチ」
と講師が説明し、やたらと腑に落ちたことがありました。
グローバルとローカルの境って、寄せては返す波のようなもの。単一本山制が必然の帰結であるならば、先人たちはそれをとっくに果たし得たはずです。それが如何に難しいかを、歴史が証明しているのではないでしょうか。
いまを生きる私たちは、現実の両本山制による故実を踏襲した日送りをしつつ、心根までは対立や分断に加担しない、「違いながらも和合する」ための姿勢や努力が大切ではないでしょうか。
両山会に馴染んだ当地の方が全国の場に出て、あまりに明確な両本山の区分けに戸惑い、ともしたら居場所をなくしそうになる、という話を聞いたことがあります。
両山会は理想であり徒花。しかしそれを実現している事実と奇跡。
その意味では、長く總持寺で勤められた山口老師が講演中、両本山で異なる袈裟ヒモの処理について、
「みんな(永平寺式で)包み込んでしまっても良い」
と仰ったのは両山会の意義が深まる画期的な知見で、グローカルな宗門の未来を感じさせ、耳目が開かれる思いがしました。
式典の最後に挨拶をされた佐瀬道淳老師。いつもながらの柔和な佇まいと語り口が印象的でした。
總持寺系の主要な役職を歴任され、両山会の設立にも関与されたであろう佐瀬老師が、数十年前に残された大鉈の如き舌鋒の一文をリンクして、駄文を閉じます。(住職 記)
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