会食と黙食

今朝の新聞に「法要の会食の代わりの『代御膳』」という広告が掲載されていました。

昨年、夏のクラスター騒ぎがひと段落した秋ごろには、法事の後席は回復傾向にありました。

しかし2度目の緊急事態宣言が発令されたのをきっかけに、再び会食を自粛するムードが強まっていました。

そんな中で、地元の飲食店も協力する形でこのような「新しい法要の習慣」が提案されるのも、致し方ない情勢と思われます。


今や、すっかりコロナの〝感染源〟扱いされてしまった、「会食」と言う言葉。

 

これまでは、例えばビジネスの交渉を円滑にするための手段であったり、人と人とのコミュニケーションを深めるものとして、むしろ肯定的な意味で捉えられてきました。 

少し前ですが、福岡のカレー屋さんが

「外食がダメなのではなく、食事中の至近距離での会話が感染リスクになることを伝えたい」

と考えて始めた、お客さんに食事中の会話の自粛を求める「黙食」の取り組みが、全国的に支持を得て広がりを見せています。


感染症対策を十分に講じた上で「黙食」が浸透することで、萎縮気味の外食消費へのマインドが少しでも回復されるといいのですが・・・。


 そして言わずもがなですが、禅寺では何百年も前から、「黙食」が「日常の生活様式」であり続けてきました。 

(「大本山永平寺別院 長谷寺」HPより)


 道元禅師は『赴粥飯法』という著作の中で、修行道場での摂食の意義や作法について、事細かにお示しになられておられますが、とにかく食事については、談笑などはご法度であり、「唯だ黙するのみ」と説かれます。 

 そして、食事の時の具体的な作法や所作をいくつも列挙されていますが、その中で、

 ①くしゃみをする時は、必ず手で鼻(口)を覆う。 

 ②口内に食事を運ぶ時、大口を開けてはいけない。

 ③箸や匙に適量を乗せ、それを真っ直ぐに口に運び、食事がこぼれ落ちないようにする。

 ④食べ物を口に含んで話をしてはいけない。 

⑤息を吹きかけて粗熱を取りながら食べてはいけない。 

⑥もし異物が混入していたとしても、それを唾棄してはならない。 

 と、まさに現代での「飛沫拡散防止」に通じる教えを多く示しておられます。


何よりも大切なのは、道元禅師の「黙食」が、決して人的なコミュニケーションを減退させるものではないということ。 



 修行道場は多くの修行僧が生活し、そもそも孤食をできる環境ではありません。 

 「隣の器を見て物欲しそうにしてはいけない」

「果物の種は周りの不快にならないよう器で隠しなさい」

「同じ場所で食事する他の修行僧と、同じ速度で食べるよう気を配りなさい」

「先に食べ終えて、周りが食べ終わるのを急かすように、眺めて待っていてはいけない」

とも説かれています。 

もう一方で『典座教訓』を著されていることからも伺えますが、 道元禅師の教えにおいて食事とは、ただ食べるだけではなく、作ることも給仕することもひっくるめた、仏作仏行が交流する一端かつ全体であり、禅寺の「黙食」は濃密な「会食」の一つの形。

もしかしたら、「密」になりがちな修行生活を送る上での智恵なのかもしれません。


昨今の「黙食」の取り組みによって、飲食店と消費者、ひいては生産者も含めて互いに気遣い合い、「食」を通じたコロナ禍の寄り添い合いにつながることを、祈念して止みません。


 しかし、そうは言ってもこのような作法を窮屈に感じ、食事の時には大いに談笑したいと切望される方もおられるでしょう。 

 これについて、『赴粥飯法』などには示されてはいませんが、実は、実際の修行道場の日暮らしの中から生み出された「生活実態」があります。 


 月に数度の安息日や特別な祝いがある時、「黙然」でない食事が許される時があります。

 これらの際、修行道場では麺類が供され(うどんであることが多い)、この時ばかりはみな、競うように盛大に音を立てて麺をすすります。食べ終わると、どこか背徳感のような、呆然とも爽然ともした感覚に満たされます。(下記リンク先参照)

臨済宗ではこれを「ずり出し」と称するようで、なんとも絶妙なネーミングですが、もしかしたらこういったメリハリが、日常の機微を活き活きとさせるために必要なことなのかもしれません。 


 外食が難しい今、せめて家で食べる時は、ご家族で「ずり出し」のように賑やかな食卓を囲んでほしいものです。 


 ただ逆に独居の方にとっては、今後ますますそのようなメリハリが失われる可能性もあります。 


 黙食が、新たに「孤食」による弊害を深めることがないようにするにはどうしたらいいか。コロナ禍の課題は尽きません。

宗淵寺/願興寺

島根県松江市にある曹洞宗寺院・臥龍山宗淵寺と、境内に奉祀されている出雲観音霊場第二十三番札所・新美山願興寺からのお知らせや山内行事の報告、さらに住職や寺族、檀信徒の日暮らし、心にうつりゆくよしなしごとを、そこはかとなく書きつづっています。

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