三仏忌にまつわる雑感(〝唯我〟について)
12月に入って10日あまり。
禅宗寺院では、12月に入ると「摂心」という行事があります。詳しくは、曹洞宗の公式ページの記載をご覧ください。
すでには「断臂摂心」も終わりましたが、この間のクライマックスは、なんと言っても「三仏忌」の一つにも数えられる、8日の成道会です。
降誕会、成道会、涅槃忌をいわゆる「三仏忌」と称しますが、涅槃会はともかく、なぜそれ以外の二つが「忌日」なのかという問題はひとまず置いて、ここでは、今年の成道会にちなんで、特に降誕会との関係で、お釈迦さまの言葉にまつわる雑感を記します。
とは言っても、筆者が何事かを透徹したり、典拠や論拠に確固としたものがあるわけではありません。何となく「そうかな・・・」という程度に、薄ぼんやりしたものです。
降誕会において、生誕されたばかりのお釈迦さまが周行七歩して「天上天下唯我独尊」と仰ったと言われていますが、端的に直訳すると「時空を問わず、この世の中で、ただ私のみが尊い」となりますが、「私のみが尊い」という言葉に、何とも不遜で尊大なニュアンスを受け取る人もいると思います。
そこで、この言葉の注釈や裏付けとしてよく用いられるのが、成道会において悟りを開かれた時に仰られたとされる「我と大地有情と同時成道す」という言葉です。
つまり、お釈迦さまの悟りは、ご自身のみではなく、それが因子となって、あらゆる生物や山川草木も、同時に苦悩を滅して安楽を得ることができた。つまり「この世の全てが尊い」という解釈です。
でも私は、この解釈に少し違和感を感じていました。
確かにお釈迦さまの教えの本質は、自利と利他が両輪となったものですが、でも後者の解釈だと、前者の「唯」とか「独」という、「強い限定」の意味合いが失われているように思われるのです。
赤子のお釈迦さまの言葉が稚拙で偏狭、成道の言葉が成熟して博愛、ということでもないでしょう。私は、お釈迦さまは確かに、この悟りや安楽について、そうでない領域と一線引いておられたと思えてならないのです。
では、その一線はどこか。それは「唯我」の領域がどこまでか、ということにもなりますが、私はひとまずそれを仏・法・僧の「三宝」だと見なしました。
仏はお釈迦さまご自身。法はその教え、僧は僧伽・教団です。ある意味でこれらを三位一体と捉えて「唯我」としているわけですが、これには、かつて故・宮崎奕保禅師が「わ(た)しが永平寺や」と説示されたのを聞いたことが誘因となっています。
大地無情はともかくとして、少なくとも有情においては、教えによって行ずるものとそうでないものは、分けておられてたのではないか。
なぜかそういう着想を得た、今年の成道会でした。
以下は、本筋とは全く違う話。
今年のいずも曹青の臘八摂心、都合がつけば私も参加するつもりでしたが、色々と言い訳を立てて、結局参加せず。
そんな怠け者の私の代わり、でもないですが、他の会員が摂心を勤め上げられました。教えにより行を立てようとする方々に、心より敬意を表します。
生前の今岡さんは、松江市の洞光寺で勤めておられて、ここの坐禅堂を活用し、行を立てようとされた方でした。
その遺志を、もはや今岡さんを知らない今の会員たちが継承しているかと思うと、胸の中が熱くなります。(住職 記)
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