個性をなくしても、はみ出る個性
先日の日曜日の夜、テレビ番組の『関ジャム〜完全燃SHOW』を鑑賞しました。
以前から、ミュージシャンの松隈ケンタさんが一貫して制作している、「WACK」という芸能事務所に所属するアイドルグループの楽曲が好きで、その松隈さんがゲスト出演されるということで見たのですが、その中で松隈さんが松隈さんが、大変興味深いことを言っておられました。
番組で解説されていた「松隈式 アイドルソングの作り方」の中で、松隈さんは「個性をぶっ殺す歌唱法」を挙げておられました。
楽曲の制作に当たって、事前に仮歌といって別の人が歌った音源を録り、それを参考にしてアイドルが実際に歌入れを行うのですが、松隈さんは、アイドルに
「仮歌に忠実に歌うように」
と指示されるのだそうです。
つまり、アイドル本人が持っている特徴や個性(もしくは、本人が意識的に自身の色だと見なしているもの)を、最大限に生かす発想では、制作に当たらないというのです。
これだけ聴くと、単に強権的なプロデューサーの放言のように感じますが、その意図を説明する松隈さんの言葉が、大変含蓄のあるものでした。
「仮歌通りにできなった所が、その人の個性」
「個性を殺した時にはみ出してくる所が本当の個性」
つまり、抑えたことではみ出た個性を、最大限に生かしたプロデュースをしているというのです。
この言葉に、私は深く共感しました。私自身の経験則とも見事に合致するものだからです。
この指導法、私が僧堂で修行していた時と、全く同じだったのです。
修行に入る時、私たちは髪を剃り、それまで着ていた洋服ではなく、墨染の衣に装いを改めます。
そして歩き方、立ち方、食べ方、眠り方。全て、同じ所作が求められます。
見た目だけではありません。論理的思考も駆使できません。修行当初は「はい」か「いいえ」の発語だけが、ほぼ唯一の意思表示になります。所作の結果だけが評価され、「言い訳」という名の事情やプロセスは一切考慮されません。
他者との差異を極力なくし、元々ある伝統的な生活の型に自身を当てはめることから、修行生活は始まるのです。徹底した「没個性」化です。
当時の私の感覚は、「〝自分〟というカウンターを減らさなければ、それだけここの暮らしはしんどくなる」というものでした。
今まで積み上げてきた生き方や個性、考え方は、ここでは一切通用しないし、捨てていかなければならないと感じました。
最初はそれが辛かったのですが、しばらくすると、逆に個性を失うことで、自分がいかに余計な「荷物」を背負い込んでいたかが分かってきました。
そして、本当に自分にとって大切なものと、そうでないものが、だんだん選別できてきました。
知らない間に「自分を断捨離」していたのです。
それは私だけではなく、見た目はまるでロボットのように「無個性」の集団に見える雲水たちも、実は大変個性的で、むしろ無駄がない分、各人の個性の核が際立って感じられるようになりました。
そうなると、修行道場の生活は、早起きとか粗食を辛く感じず、「自身を賭ける価値のある道場」になります。
その時注意しなければいけないのは、その環境が、自分を捨てるに値する場所かどうか。信頼に足る先達がいるかどうか。
もし「一方的な搾取しかない」環境ならば、そこは直ちに捨てなければならない。昔の修行僧が諸山雲遊し、あたかも「雲水」と呼ばれたのは、そのためでしょう。
実際に、修行中に自身の生き方を見つめた結果、修行が終わって僧侶の道を離れる仲間もいました。
好き勝手な足し算ではなく引き算。いくら捨てても最後まで湧き出ることを止められないのが、その人の個性なのです。
松隈さんのプロデュースも、人によって合う合わないがあると思います。
ただ私には、「不自由の自由」という、私にとっての「原体験」が共有できていたから、松隈さんの楽曲を好きになって聴いていたのかもしれません。(副住職 記)
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