高知・中村 拾い歩き
2月の高知出張。2日目には、県西南部「幡多地方」の中心都市、中村まで足を伸ばしました。
中村は義母の出身地なのですが、私は高知や中村に関して無知蒙昧で土地勘もなく、妻が幼少時に桂浜で波にさらわれそうになったという、今となっては記憶違いの話を聞いて、中村と桂浜は近隣地だと、勝手に思い込んでいました。(妻の記憶違いについては、下記のリンクを参照)
実際の中村(現・四万十市)は、県庁所在地の高知市から、車で西へ約2時間弱の場所にあります。
義母には申し訳ないが、自動車専用の横断道である高知道が未着工の区間もまだ多く、在来道を運転しながら「ずいぶん辺鄙なところにあるなぁ」と独言てました。義母には「島根県民には言われたくない!」と猛反論されそうですが。
でも、最初に本稿の結論だけ言っておきます。
「中村こそ、真の小京都だ‼️」
「中村初心者🔰」の私がまず最初に向かったのが、中村城跡(為松公園)に建てられた「四万十市郷土博物館」。
平成17年の市町村合併で「四万十市」となった旧中村市の歴史や風土を知ることができます。
城郭を模した建物の最上階から見た中村の街。
街景の後方に川が見えますが、新市名の由来となった「日本最後の清流」四万十川ではなく、支流の後川です。
詳しくは後述しますが、中村は「土佐の小京都」と称され、碁盤の目に整備された街並みが特徴。
中村城跡の敷地内に建てられた、幸徳秋水の顕彰碑。
中村出身の著名人として真っ先に上げられるのが、明治時代の社会活動家・幸徳秋水。彼が処刑された大逆事件では、曹洞宗からも内山愚童師が連座されました。
内山愚童師については、下記リンクを参照。
一般的に、お城はその街のランドマークになりますが、中村の場合、例え後代に復元された中村城(郷土博物館)が目についたとしても、精神的な拠り所にはなり得ないようです。
では、中村のランドマークが何かというと、それは「一條神社」、通称「いちじょこさん」になるのではないでしょうか。
一條神社は、「土佐一條家」の居館「中村御所」があった場所に建てられました。
元々、一條家は五摂家の一つであり、名家中の名家。
室町時代後期の公家で、知識人として知られた8代当主の一條兼良の子で、関白まで務めた9代当主の教房が、応仁の乱の戦火を避け、当時、所領のあった土佐幡多荘に下向。
土佐の国人らに歓迎され(この中には長宗我部氏もいた)、中村御所を構えて、京都の文化を伝え、京都に倣った街造りを行いました。
今でも中村には「鴨川」や「東山」といった地名が残り、8月の末には「大文字の送り火」が行われています。
また港湾を対明貿易の中継拠点とし整備し、経済的にも発展、中村繁栄の礎が築かれました。
教房の子・房家以降に中村に土着した一族を「土佐一條家」と言い、その後に戦国大名化していきますが、土佐一條家が他の大名と違うのは、中村に土着した後も公家としての格式を保ち続けていたことで、房家の子・一條房通は、帰洛して一条本家の11代目当主となっています。
これは言わば「貴種流離譚」の亜型とも言え、中村の人たちが領主を尊崇し、その土地柄を誇負する根拠になったはずです。
その一條家が家勢を失うのが、教房から数えて5代目の兼定の代。
この兼定は暗愚のとして名高く、戦国シミュレーションゲーム『信長の野望』では、パラメータが登場人物中、最弱クラス。そら、「鬼若子」長宗我部元親に敵うわけありません。
一時は土佐の宗主とも言える地位にあった土佐一條家ですが、長宗我部元親による下克上で、土佐を追われた上に家系も断絶します。
一方で、房通が家督を継いだ京都の一條本家はその後も存続し、明治天皇の正妻、昭憲皇太后も一條家のご出身でした。
そして中村御所跡は、土佐一條家の祀る廟所となり、やがて「一條神社」となって幡多郡の総鎮守となります。中村の人たちが、いかに一條の家徳を慕っていたかが分かります。
昭和60年になってから、全国の「小京都」と称される街と京都市が参加した「全国京都会議」が結成されます。その加盟条件は、
①京都に似た自然景観、町並み、たたずまいがある
②京都と歴史的なつながりがある
③伝統的な産業、芸能がある
このいずれかに当てはまるのが基準、とのこと。わりとオンボラしてますね…
令和元年6月の段階で43市町が加盟していて、実は前日訪れた安芸市も加盟自治体。知らない間に「小京都のはしご」をしていたわけですが、今回、その加盟43市町の概要をチラ見したところ、中村以上に条件を全て兼ね備え、「小京都」を名乗るに相応しい市町はありませんでした。
よって、甚だ勝手ではございますが、中村(現・四万十市)こそが、小京都ランキング第1位、正真正銘の小京都と認定します。
中村という土地柄が何となく分かったところで、その「中村こそ真の小京都」の根拠、中村のランドマークでありアイデンティティとも言える一條神社にお参りすると…
お!😍
はうっ💘
あ、あ、あ、💓💓
み”や“ぁぁぁぁっ❣️❣️❣️
やばいやばい、猫好きはキュン死必至。
かわいい看板猫の「チビちゃん」によるサプライズのお出迎えに、思わず舞い上がってカメラを連写。
もうこれだけで、一條神社、100点満点です💯
上が現在の社殿。下は、妻が幼少時に祖母と撮った写真です。この頃、浮津海水浴場(現・黒潮町)で波にさらわれかけたのでしょうか。
出雲地方の人間から見たら、社殿や境内の規模が特に大きいわけではなく、出雲大社や八重垣神社のように参詣の人波が途絶えないほどではありませんが、とにかく境内がよく整っていました。
抽象的に言うと「〝気〟が滞らず流れている」というか、人の目がよく行き届き、人の流れも一定あることが感じられます。さっきのチビちゃんの登場が、その証明。
これは結構寺社にとって重要で、普段、人的な活動がない社寺は「人の気配」を感じず、寂れた気配になってしまい、参拝時の「気分」にも影響します。
何故かは分かりませんが、最近流行のリラックマ絵馬。
人の納めた絵馬を世間に晒すのは、デリカシーに欠けるかなとも思いますが…これ見るの、嫌いじゃないんですよね😏
一條神社はジャニーズファンの祈願所でしょうか。
「たくさんのお仕事がJUMPにきますように」っていうのが、利他的で微笑ましい😊
御朱印所にはたくさんのお札やお守りがありましたが、私は「一条貫太」のCD販売が気になりました。買いませんでしたが。
千葉市出身。中村とのご縁は「一條(条)つながり」でしょうか。
Wikipediaによると「名古屋の大須商店街を好み、」とあります。
そんな一条貫太さんに是非オススメなのが…
天神橋商店街。立派なアーケード街です。
一條神社の鳥居の前にある、文字通りの門前町。松江天神町商店街みたいなものでしょうか。
義母の実家は、アーケードから少し外れた所で理髪店を経営していました。
商店街をふらついていたら…
改元のお祝いと並んで、昨年に電撃結婚した芸能人カップルのイラストが。
因果関係が分からず、下記のアドレスを参照にしました。
便乗のターゲットと仕方が、唐突というか独特。
商店街のみなさんのノリがいいんでしょうね。もし実現したら、一條教房公以来の貴種来駕でしょうか。
アーケードを少し外れたところにあった「きっさてん」という店名のお店。おそらく喫茶店です。
さらにその向かい側には、
土佐の小京都の「江戸っ子美容室」。
もはや今の自分がどこにいるのか、分からなくなります。
あとで聞いたら、母の実家はこの先隣だったようです。すわっ、商売敵か?「江戸っ子美容室」!
さて、この日の昼食ですが、中村ではないのですが、事前に目星をつけていたうどん屋「いろりや」さんが隣の黒潮町にあったので、そちらへ。
番組の企画で四国中のうどんを食べた、北海道のカリスマ演劇ユニットの方に「一番うまいかもしれない」と言わしめたお店。
うなぎや青さといった、四万十川産の素材も楽しめますが、一番人気が「カレーうどん」ということで、相も変わらずカレーうどんを注文。
クリーミーですが、意外とスパイシーです。
豊中の「銭形」で頂いたキーマカレーうどんも、顔の毛穴から小汗がにじむくらいの辛さでした。
おいしいカレーうどんは、ちゃんとカレーを作り、スパイスにも気を配るから、相応に辛くなるに違いありません。
猫とカレー。好物のツープラトン攻撃にKO寸前の、義母の故郷巡りでした。(副住職 記)
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