岡山・高松地区(最上稲荷〜備中高松城址)拾い歩き②
前半からの続きです。
最上稲荷の諸堂を巡拝した後、本来の目的だった豊臣秀吉の本陣跡へ向かいました。本殿からさらに登った、奥の院とは反対の尾根にあります。
高松の街を一望できるこの場所で、四方を山に囲まれた地形を見て、黒田官兵衛が高松城の「水攻め」を献策したそうです。
自然災害ならともかく、人為的にここを浸水させるとは、何ともスケールの大きい話です。名軍師が用兵のみならず、天文学や気象学などに長じている話は、諸葛亮孔明にも通じます。
「縁の末社」と同様に、秀吉が祭神の一体として祀られています。
その「豊國天皇」の神祠を後背にして、高松の街を睥睨する様に建てられた、日蓮聖人像。
まるで水攻めの采配を振るっているみたいです。
蛇足になりますが、秀吉による高松城攻めによって焼失の憂き目に遭った最上稲荷。江戸時代になって日蓮宗人として再興されます。しかしその後一旦独立。約半世紀に渡って「最上稲荷教」の総本山となりましたが、平成21年になって日蓮宗に復帰しています。
その事情は下記のリンク先で触れられていますが、地域屈指の巨刹でも時代の荒波というか、今で言うところの「寺院減少(消滅)時代」の諸問題に直面していていた節が伺えます。
本陣跡から見た本陣の全景。その規模の大きさが分かります。
タイムトンネルのような門前町と狐たちの顔相に魅了されて、予定外に長居してしまった最上稲荷。
ようやく別れを告げて、約2km移動して「高松城趾公園」へ。ベンガラ色の大鳥居にもほど近い場所にあります。
岡山市観光協会による「驚天動地 高松城水攻め」の特集ページで、一連の動きが学習できますが、一応言っておくと、高松は「攻めを受けた側」。それが特集ページを持っているわけです。
公園の駐車場に車を停めて、まず近接する妙玄寺へ。ここには清水宗治自刃の地として供養塔が祀られています。
「清水宗治公自刃之趾」。城下五千名の助命と引き換えに、ここで宗治が切腹したと伝えられています。
境内を少し外れた、供養塔からも見える場所にある「ごうやぶ遺跡」。
宗治の近臣衆が後を追って刺し違えた場所と言われています。
そう聞くと、何やら霊気漂う古木の佇まいにも見えます。すると、不思議なことに霧もやが立ち込めてきました…
安心して下さい。霧もやの正体は、近所のおっつぁんによる焚き火の煙。
正に、「幽霊の 正体見たり 枯れ尾花」。
境内で売っている「切腹御守」、それと「SEPPUKU」と銘打った、過って外国人がお土産で買いそうな絵馬。ちょっと願意が込めづらいかな…
平城でありながら、周囲の湿地帯が天然要害となって堅城鉄壁を誇った備中高松城。その跡地は公園として整備されていました。
「高松城水攻め」と書かれたのぼり旗。これ、秀吉の本陣跡にもありました。
繰り返しますが、高松城は「攻めを受けた」側。それをのぼりにすると、ちょっと意味の変容というか、水攻めされたことを積極的に広宣する感じがします。
さらには…
「水攻音頭」。
もうこれは開き直りというか、歴史評価の逆転というか、地域おこしのための悪因を正縁に転化させんとするたくましさ、図太さすら感じます。攻守逆転というか。
宗治も、まさか自刃したことがネタになって、民衆が歌い踊るとは思ってもみなかったでしょう。正に奇祭。
場所を変え、およそ500m行った、大鳥居を挟んだ向かい側にある「蛙ヶ鼻築堤跡」。秀吉勢が築いた堤防の一部が今も残る場所ですが、ここもやっぱり、
「高松城水攻め 史跡公園」。もう徹底して「水攻め」です。
今は公園となって、犬の散歩でオシッコによる「水攻め」を受ける皮肉たるや…(後方の土塁が堤防の跡)
これは後刻に、ネットの情報で知り得たのですが、先の「高松城跡公園」の近くに「水攻饅頭」なるお菓子を売っているお店があるそうな❗️
しかもこれ、水饅頭っ‼️
駐車場から少し離れたところにあったらしく、不覚にも見過ごしてしまいました。無念なり…。次は絶対に討ち漏らさまいぞ。(画像は、某グルメサイトから拝借しました)
最近よく思うのですが、私も歴史が好きで、戦記物を読んだり、『信長の野望』をプレイしたまま夜を明かしたこともありましたが、合戦は、大きく見たら歴史ロマンでも、小さく見たら死屍累々。『信長の野望』でワンクリックしたら、実際には数百の人馬が死ぬわけです。
「小さな物語」を埋没させて「大きな物語」を数珠つなぎにしたのが、よく私たちが見聞きする「歴史物」とか「正史」とか言われるものだったりします。
そう思うと、「秀吉の采配が云々」とか「黒田官兵衛名軍師」とか軽々しく言えなくなりますよね。
今はただたた、「兵どもが夢の跡」に、供養専心の合掌あるのみ。(副住職 記)
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