岡山・高松地区(最上稲荷〜備中高松城址)拾い歩き②


前半からの続きです。
 
最上稲荷の諸堂を巡拝した後、本来の目的だった豊臣秀吉の本陣跡へ向かいました。本殿からさらに登った、奥の院とは反対の尾根にあります。

高松の街を一望できるこの場所で、四方を山に囲まれた地形を見て、黒田官兵衛が高松城の「水攻め」を献策したそうです。
自然災害ならともかく、人為的にここを浸水させるとは、何ともスケールの大きい話です。名軍師が用兵のみならず、天文学や気象学などに長じている話は、諸葛亮孔明にも通じます。

「縁の末社」と同様に、秀吉が祭神の一体として祀られています。

 
その「豊國天皇」の神祠を後背にして、高松の街を睥睨する様に建てられた、日蓮聖人像。

まるで水攻めの采配を振るっているみたいです。
 
蛇足になりますが、秀吉による高松城攻めによって焼失の憂き目に遭った最上稲荷。江戸時代になって日蓮宗人として再興されます。しかしその後一旦独立。約半世紀に渡って「最上稲荷教」の総本山となりましたが、平成21年になって日蓮宗に復帰しています。
その事情は下記のリンク先で触れられていますが、地域屈指の巨刹でも時代の荒波というか、今で言うところの「寺院減少(消滅)時代」の諸問題に直面していていた節が伺えます。

日蓮宗新聞社 : 最上稲荷教が日蓮宗所属に

2009年9月1日号最上稲荷教(稲荷日應管長)の日蓮宗所属辞令交付式が7月24日、東京・大田区の日蓮宗宗務院で行われた。 最上稲荷教は、岡山県妙教寺(貫首=稲荷管長)を総本山とする教団で、日本三大稲荷の一つ。昭和29年7月24日に先々代の稲荷日宣師のもと日蓮宗から独立したが、僧侶の高齢化による後継者不足や修行・育成問題など考慮し、再び日蓮宗に所属することとなった。 これにより、最上稲荷教に所属していた20の被包括法人・231人の僧侶のうち、8法人・58人の僧侶が日蓮宗に所属することになった。最上稲荷教は今後、解散を迎える予定。残りの法人は単立となり、法類的組織をつくる。 小松浄慎宗務総長は挨拶で、「『立正安国論』奏進750年という節目の年に、われわれ日蓮宗は大きな力を賜りました。われわれは、所属した法人が包括法人日蓮宗になにができるのか、ではなく、逆に包括法人日蓮宗が、所属している各法人に何ができるのか、という部分を考えていかなければいけない。日蓮宗でよかったと思っていただけるような包括法人でなければならない。大いにお題目を唱え、手を取り合って、教団拡張を目指し、世界に向けてお題目を発信していきましょう」と語った。 法人審議会の本間皓司委員長、褒賞審議会の富山慈峰委員長、濱田壽教中四国教区長の祝辞の後、稲荷管長が挨拶した。 「半世紀を経て振り返ってみると、教団としての使命は既に果たし終えた、というのが実感です。そもそも妙教寺は、池上本門寺16世・日樹上人の高弟・日円上人が再興されたもの。日蓮大聖人を祖師として法華経を読誦し、誠を捧げてまいりました。その400百有余年を考えますと、日蓮聖人の教法を仰ぎ奉ることに、なんら異同を覚えるものではございません。“一天四海皆帰妙法”のもと、次代を担う人材育成のために、また地域社会貢献の積極的展開のために、転宗の決議をいたしました。今後は立正安国の顕現を目指し、大聖人の教法を体得し、その広宣流布に異体同心で邁進する覚悟です」と抱負を述べた。 その後、質疑応答の場が設けられ、稲荷管長が応じた。 「果たし終えた使命」とは何か、との質問に対しては、「社会貢献」と答えた。今の体制では社会貢献にも限界があり、その限界を超えるために日蓮宗所属という手段をとった、とした。 また、最上稲荷教が独自にもつ加行所の位置付けについては、「日蓮宗の公認を

news-nichiren.jp


本陣跡から見た本陣の全景。その規模の大きさが分かります。


タイムトンネルのような門前町と狐たちの顔相に魅了されて、予定外に長居してしまった最上稲荷。
ようやく別れを告げて、約2km移動して「高松城趾公園」へ。ベンガラ色の大鳥居にもほど近い場所にあります。
岡山市観光協会による「驚天動地 高松城水攻め」の特集ページで、一連の動きが学習できますが、一応言っておくと、高松は「攻めを受けた側」。それが特集ページを持っているわけです。


公園の駐車場に車を停めて、まず近接する妙玄寺へ。ここには清水宗治自刃の地として供養塔が祀られています。

「清水宗治公自刃之趾」。城下五千名の助命と引き換えに、ここで宗治が切腹したと伝えられています。

境内を少し外れた、供養塔からも見える場所にある「ごうやぶ遺跡」。

宗治の近臣衆が後を追って刺し違えた場所と言われています。
そう聞くと、何やら霊気漂う古木の佇まいにも見えます。すると、不思議なことに霧もやが立ち込めてきました…

安心して下さい。霧もやの正体は、近所のおっつぁんによる焚き火の煙。
正に、「幽霊の 正体見たり 枯れ尾花」。

 境内で売っている「切腹御守」、それと「SEPPUKU」と銘打った、過って外国人がお土産で買いそうな絵馬。ちょっと願意が込めづらいかな…

平城でありながら、周囲の湿地帯が天然要害となって堅城鉄壁を誇った備中高松城。その跡地は公園として整備されていました。

「高松城水攻め」と書かれたのぼり旗。これ、秀吉の本陣跡にもありました。
繰り返しますが、高松城は「攻めを受けた」側。それをのぼりにすると、ちょっと意味の変容というか、水攻めされたことを積極的に広宣する感じがします。
さらには…

「水攻音頭」。
もうこれは開き直りというか、歴史評価の逆転というか、地域おこしのための悪因を正縁に転化させんとするたくましさ、図太さすら感じます。攻守逆転というか。
宗治も、まさか自刃したことがネタになって、民衆が歌い踊るとは思ってもみなかったでしょう。正に奇祭。
 
場所を変え、およそ500m行った、大鳥居を挟んだ向かい側にある「蛙ヶ鼻築堤跡」。秀吉勢が築いた堤防の一部が今も残る場所ですが、ここもやっぱり、

「高松城水攻め 史跡公園」。もう徹底して「水攻め」です。
今は公園となって、犬の散歩でオシッコによる「水攻め」を受ける皮肉たるや…(後方の土塁が堤防の跡)
 
これは後刻に、ネットの情報で知り得たのですが、先の「高松城跡公園」の近くに「水攻饅頭」なるお菓子を売っているお店があるそうな❗️
しかもこれ、水饅頭っ‼️

駐車場から少し離れたところにあったらしく、不覚にも見過ごしてしまいました。無念なり…。次は絶対に討ち漏らさまいぞ。(画像は、某グルメサイトから拝借しました)

最近よく思うのですが、私も歴史が好きで、戦記物を読んだり、『信長の野望』をプレイしたまま夜を明かしたこともありましたが、合戦は、大きく見たら歴史ロマンでも、小さく見たら死屍累々。『信長の野望』でワンクリックしたら、実際には数百の人馬が死ぬわけです。
「小さな物語」を埋没させて「大きな物語」を数珠つなぎにしたのが、よく私たちが見聞きする「歴史物」とか「正史」とか言われるものだったりします。
そう思うと、「秀吉の采配が云々」とか「黒田官兵衛名軍師」とか軽々しく言えなくなりますよね。
 
今はただたた、「兵どもが夢の跡」に、供養専心の合掌あるのみ。(副住職 記)

 

宗淵寺/願興寺

島根県松江市にある曹洞宗寺院・臥龍山宗淵寺と、境内に奉祀されている出雲観音霊場第二十三番札所・新美山願興寺からのお知らせや山内行事の報告、さらに住職や寺族、檀信徒の日暮らし、心にうつりゆくよしなしごとを、そこはかとなく書きつづっています。

0コメント

  • 1000 / 1000