十一面観音と水との関係

ボランティアでの気づき

 この7月、中国地方を中心に西日本全体に甚大な被害をもたらした集中豪雨が発生しました。

 それだけではなく、平成二十三年に発生し「(まるで)第二の敗戦」とまで評された東日本大震災以降、平成二十六年には熊本地震と広島の豪雨土砂災害、平成二十七年には茨城県常総市を中心とした豪雨災害、平成二十八年には鳥取中部地震、平成二十九年には九州北部の豪雨災害と、列記してみても、毎年のように甚大な自然災害が発生していることが分かります。

 私は所属する「いずも曹洞宗青年会」の活動の一環でいくつかの被災地にボランティアに行かせて頂きました。掃除や泥かき、傾聴活動など、ボランティアセンターでマッチングされた内容を、ただただ無心で取り組んできました。

 あれは東日本大震災のボランティア活動で、岩手県釜石市のある集落に入った時のことです。住民の女性と話をしていると、地域に祀られている観音像について、話し出されました。聞くと、明治三陸地震の際に発生した津波で亡くなられた方の慰霊のために建てられたものだったそうです。

「毎年地域で慰霊祭を開催していたのですが、当事者が亡くなり、記憶の風化と共に、段々とお参りする人も少なくなって、いよいよ来年は慰霊祭を中止しようという話が出ていた矢先、あの津波に襲われました。自分たちが経験して、改めて、当時の人たちがあの観音様に込めた祈りの深さを、身を以て知りました。あの観音様のことを、私たちは忘れてはいけなかったんです。」

 この話を聞いて以来、私は無心で活動をしながらも、被災地と言われる地域にある「神仏の面影」を意識的に探すようになりました。

 その点で印象深いのが平成二十六年の広島豪雨土砂災害です。事前にあるテレビ番組で、被災地域である安佐南区八木という地域が、元々は「八木蛇落地悪谷」という名前で、水害が多い地域性であることを暗示し警鐘する地名だったのが、一般的に印象の悪い表現が改められ、「八木」という地名だけが残って住宅地として造成された結果、過去からの警鐘が失われた、というものでした。

 実際に当時の被災地に行ってみると、巨大な引っ掻き傷のような土石流による爪痕がある中、地滑りしていない一角がありました。地元の人によると、

「昔からある小祠などが建つ場所は地盤が固く、今回も地滑りしなかった。昔の人は、そういう場所を知っていたのではないか。」

と仰っていました。

 以来、地元に帰った時も、やたらと路傍の朽ちかけた小祠や石仏が気になるようになりました。そこにある「意味」は何か、過去の人たちのメッセージが宿る記憶装置に思われたのです。


天災と日本人と観音様

 そんな中、先日あるテレビ番組で、民俗学者の畑中章宏さんという方のお話を視聴する機会がありました。畑中さんは「災害民俗学」とでもいうべき領域を研究対象としていて、曰く、例えば『遠野物語』には、当時の災害や飢饉に苦しむ人たちの記憶が反映していて、個々が抱える悲しくて辛いけれども割り切れない、言語化できないモヤモヤとした思いや気持ちが、怪異伝承になることで形になり、初めて他者と共有できる。だから怪異伝承には、実際の災害の教訓に富んでいる、というのです。

 震災で家族を失った人は、自分が生き残ったことへの安堵と後ろめたさがある。それが「家族の幽霊を見た」という怪談話になって人に伝えることで、複雑な気持ちのありようが、ようやく他人にも理解できるようになる。

 畑中さんのお話に大変興味を持った私は、早速著書である『天災と日本人』(ちくま新書 2017)を購読したところ、大変興味深い事例を知ることとなったのです。それが、「十一面観音と水との関係」でした。

 氏によると、「日本古来の自然崇拝にもとづく水の神は、道教や仏教の竜神や竜王と習合し、さらには十一面観音にその役割が託されていった。古代や中世、各地に造立された十一面観音像は、治水や利水の象徴だったと考えられる」と言います。その代表例として真言宗豊山派総本山・長谷寺(奈良県桜井市初瀬)を挙げています。長谷寺の縁起によると、ご本尊の十一面観音は、その昔、諸国に大洪水があった時、近江国高島郡の岬に漂着した霊木を彫ったものとされています。脇侍に雨の神や竜神を従え、右手に錫杖と念珠、左手に水瓶を持ち、こうした事物の像は「長谷寺式十一面観音」と呼ばれ、日本各地の水辺に祀られていると言います。

 河川や湖沼の氾濫の象徴である龍や蛇といった水の神は、十一面観音に化身することで鎮められ、治水を果たし、そうして造立された観音像は日本全国に及び、中には海辺で津波を沈めるために十一面観音が祀られることもあったと言います。

 畑中氏は、安佐南区で調査を行なった際、八木地区に建つ「蛇落地観世音菩薩堂」に安置されていたのが十一面観音であったことを確認して、信仰史上の符合に驚いたとしています。

 ではなぜ聖観音や馬頭観音はなく、十一面観音と水だったのか。

 その原初的な発生について、畑中氏の本の中では、山岳修験の代表的な行場である白山(石川県)開創の由来について、行者・泰澄が山頂で瞑想をしていると、池の中から九頭龍大神が出現し、それがやがて本地仏の十一面観音となり、主神である白山妙理大権現として祀られたことに始まる、としています。

 また、山中の清泉に建立されたと言われる清水寺。同名の寺院は全国で40以上ありますが、その中でも格式が高い京都と安来の清水寺は、ともに本尊に十一面観音を祀っています。ここにも、十一面観音と水の強い結びつきが見て取れます。

 著述家の白洲正子氏は、著書『十一面観音巡礼』の中で、十一面観音の原型がバラモン教における山の荒神で、民衆の供養によって次第に悪神から善神に転じたものとし、その経緯が、日本人にとっては、古来の考え方でいうところの荒御魂が和御魂に変じるのと同じで、親しみやすかったのではないか、と指摘しています。そう言われてみれば、荒御魂から和御魂になる経緯は、竜神から十一面観音に変じる、即ち氾濫した河川が鎮まる経緯にも似ているように感じます。


願興寺と水との関係

 さて言わずもがな、願興寺の本尊も十一面観音であり、「子授け」のご利益は伝わっていますが、水との関係は今ひとつ見えにくいようにも感じます。江戸中期に周藤弥兵衛による切通開削があったように、当地で意宇川の氾濫の被害があったことは考えられますが、今の願興寺の立地が意宇川鎮静の場として最適かと問われると、確信を持って肯首しきれません。

 しかし、一つ思い当たるのが、願興寺の南隣に、屋号を「きそ」と称する旧家があります。私はずっと「木曽」と表記すると思っていましたが、最近になって、「岸尾(きしお)」が転訛して「きそ」になった、と教わりました。つまり願興寺の一帯は、その昔は水辺だったのです。その証拠に、現在駐車場の付近は、一段高い境内地と比べて水分が多く軟弱な地盤です。「十一面観音と水」という符合に適うようにも思えますが、果たして真相はどうでしょうか。

 今回、畑中氏の言説を学び「十一面観音と水との関係」について知ることができたことで、願興寺の信仰と地域の歴史に、未知の深まりがあるように感じられました。もしかしたら水害や治水についての地域の人々の思いと祈りの蓄積が、願興寺にはあるのかもしれません。ご本尊の十一面観音様には、改めて今回の水害による慰霊と復興を祈願したいと思います。(副住職 記)<願興寺観音講会報『どうぎょう』第47号所収>

宗淵寺/願興寺

島根県松江市にある曹洞宗寺院・臥龍山宗淵寺と、境内に奉祀されている出雲観音霊場第二十三番札所・新美山願興寺からのお知らせや山内行事の報告、さらに住職や寺族、檀信徒の日暮らし、心にうつりゆくよしなしごとを、そこはかとなく書きつづっています。

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