大本山總持寺二祖・峨山韶碩禅師伝
大遠忌と法定聚会
年忌法要には、それぞれ別名があります。例えば、四十九日は大練忌、 十三回忌は称名忌、三十三回忌は本然清浄忌と言います。
そして、五十回忌を「遠忌」といい、以降の年忌法要は50年ごとに執り行います。
「大遠忌」とは、仏教各宗においては、宗祖や中興の祖など、特に尊格の高いお祖師様の遠忌を勤める際に用いられる名称です。近年では、平成23年に浄土宗で法然上人の八百回忌大遠忌法要、平成24年には、浄土真宗で親鸞上人の七百五十回忌大遠忌法要に当たって、これに合わせて、宗派を挙げての大規模な記念事業が執り行われました。
両本山制を敷く曹洞宗では、宗制(各宗で定められた諸制度、法規)に則って、大本山永平寺を開かれた道元禅師、二祖・懐奘(ルビ:えじょう)禅師、大本山總持寺を開かれた瑩山紹瑾(ルビ:けいざんじょうきん)禅師、二祖峨山韶碩禅師、以上の四師の年忌を大遠忌とし、正当(命日)法要は、両本山の貫首が揃って導師を勤め、宗務総長をはじめ、宗門の要職にある全ての僧侶が参集をして、文字通り宗門を挙げて奉修されます。これを「法定聚会」と言います。
今年、峨山韶碩禅師の六百五十回大遠忌の正当を10月20日に迎えるに当たり、大本山總持寺では大遠忌局を設置、「相承〜大いなる足音が聞こえますか〜」というテーマを掲げ、啓発・広報活動や記念事業などが実施され、すでに全国各地で予修法要(予(ルビ:あらかじめ)め、繰り上げてお勤めするほうよう。取り越し法要とも言う)が行なわれています。
また、大本山總持寺では平成36年には瑩山禅師の七百回忌大遠忌を控えており、同じ「相承」をテーマとして継続して、大遠忌事業を進められます。
峨山韶碩禅師のご生涯
建治2(1276)年、能登国羽咋郡瓜生田(現在の石川県河北郡津幡町瓜生)でお生まれになりました。両親はとても信心深かったが、なかなか子宝に恵まれませんでした。母親はいつも「どうか賢い男の子が生まれますように」と、智慧の仏さまである文殊菩薩に、一心にお祈りをしていたと言います。
文殊菩薩像は、右手に剣を持っているものが多く見られます。これは、智慧が鋭く研ぎすまされていくことを象徴したものと言われていますが、ある晩、母親がこの剣を呑み込む霊夢を見て、懐妊したと伝えられています。
同様の話は、峨山禅師の師匠である瑩山禅師の伝記にも見られます。観音信仰に篤い母親が、高齢になって観音さまの霊夢によって懐妊した、というものですが、こういった師匠と弟子の感応道交を伺わせる説話は、今回の両祖の大遠忌のテーマ「相承」にも通じるのかもしれません。
時は鎌倉時代末期、「文永の役」や「弘安の役」の蒙古襲来という国難の時代・世相であり、そのことが幼い峨山禅師の処世観にも影響を与えたのか、正応2(1291)年、16歳で出家し、比叡山に上がります。
その後、永仁5(1297)年 、22歳の時に、京都で瑩山禅師と出会います。初めは法論を仕掛けるつもりだった峨山禅師でしたが、すっかり瑩山禅師に心酔し、正安元(1299)年、24歳の時に、当時加賀(今の石川県)の大乗寺の住職だった瑩山禅師の下に参じ、その門下となります。
正中元(1324)年、瑩山禅師の跡を継いで總持寺(当時は横浜ではなく、今の石川県輪島市にありました)の住職となった峨山禅師は、暦応3(1340)年からは、同じく瑩山禅師による開創の永光寺(石川県羽咋市)の住職(四世)も兼ねるようになります。
そのため峨山禅師は、毎日未明に永光寺の朝課が終わると、13里(約52km)の山道を駆けて總持寺に向かい、朝課を勤めたと言い伝えられています。この山道は「峨山道」と呼ばれ、現存しています。總持寺の朝課では、「大悲心陀羅尼」というお経を「ナァ~ ムゥ~ カァ~ ラァ~」と一音一音長く引いて読む「真読」という読経法でお勤めしますが、これは峨山禅師が永光寺からの到着を待つために始められたと言われています。
峨山禅師は貞治5(1366)年に入寂されるまで、両寺を往来しながら、寺院の護持と宗門の発展に尽力されました。
總持寺では、瑩山禅師を並んで「御両尊」と称され、今でも信仰を集めています。
輪住制度と弟子の育成
峨山禅師のご遺徳として刮目すべきは、その卓抜した寺院経営能力にあるとも言われます。
そのことを伺わせる話として、安来の雲樹寺を開創した孤峰覚明禅師(1271〜1361)とのやりとりがあります。臨済僧であった孤峰禅師でしたが、同時に瑩山禅師にも師事して、曹洞禅を学んでいました。当時は南北朝の時代であり、後醍醐天皇より尊崇を受けていた孤峰禅師は、同参でもある峨山禅師に、總持寺と南朝との取次を申し出ます。峨山禅師はこれを断りますが、後年南朝が衰退していったことを踏まえると、この時の峨山禅師の慧眼が伺えます。
峨山禅師による寺院経営の大きな成果として、輪住制度の確立と、弟子の育成が挙げられます。
康安2(1362)年、後継住職を弟子達で交替に勤めるよう定め、貞治3年(1364)にはこれを更に強めて、5年間ずつ住持になるように定めました。この輪住制はこの後、明治3(1870)年まで続きました。定期的な晋山式は地域ぐるみの盛事ともなって、門前町の振興にも一役買ったと言います。
また、輪住制を支えるために弟子の育成にも注力され、その中から「二十五哲」と言われる優れた弟子を輩出しました。この弟子たちが全国に教線を伸ばし、後年にその門流がさらに拡大していくことで、結果として、全国に15,000ヶ寺あると言われる曹洞宗寺院の、実に9割が總持寺派となります。
「二十五哲」の中でも特に優れた5人を「五哲」と称しますが、宗淵寺は、法系を辿るとこの「五哲」の一人である通幻寂霊(ルビ:つうげんじゃくれい)(1332〜1391)の一派となります。住職も副住職も永平寺で修業をしましたが、宗淵寺もれっきとした總持寺系のお寺なのです。
このように、今の曹洞宗の宗勢を振り返る時、そのキーパーソンは峨山禅師である、と言っても言い過ぎではないのです。(副住職 記)<宗淵寺寺報『がたぴし』第16号所収>
参考文献
『峨山禅師物語』 佃和雄 著
『總持二祖 峨山禅師』 佐藤悦成 著
『總持寺史』『嶽山史論』 栗山泰音 著
以上、大本山總持寺 刊
0コメント