弔いのご縁

 私が所属して活動しているいずも曹洞宗青年会が主催した、本年度の中国曹洞宗青年会大会が、昨年の11月19日(火)、20日(水)に松江市で開催されました。

 中国地方各県の曹洞宗青年会が持ち回りで主催し、研鑽と懇親を深める年次大会ですが、今回は初日を一般公開とし、映画『遺体〜明日への十日間』の原作者である作家の石井光太氏、葬送ジャーナリストで雑誌『SOGI』主筆の碑文谷創氏のご両名による講演会が開催され、僧俗含めておよそ180名の聴衆が参集されました。大変貴重で有意義な講演内容でしたので、その抄録を、今号の6頁に掲載し、今後も数回の連載を予定しています。何分、聴講した私の聞き書きですので、文中、講演者の本意と合わない文脈が一部あるかもしれません。しかし、講演自体の基調は再現したつもりですので、そういった前提でご笑覧下さいますと幸甚です。

 さて、この大会のテーマは「弔縁」でした。

 血縁、地縁、機縁、奇縁…縁のつく言葉は数々ありますが、この弔縁という言葉をいくら調べても、辞書には載っていないでしょう。何故なら、この弔縁という言葉は、今回の大会のために作られた造語だからです。

 元来、仏教の教えて説かれる縁とは、若い男女が求めるような「運命の赤い糸」や「出会いの偶然、奇跡」といった意味の、いわゆる「ご縁」とは異質なものです。

 行為としての原因があるから結果があり、行為としての原因がなければ結果もない、といった道理のことを、仏教では「縁起の法則」と言います。

 そして、私たち人間が他者との間に取り持つもの、私それぞれの行為がもたらす結果としての関係性を、仏教では「縁」というのです。

 亡くなられ、体を失い魂の存在としての仏となった故人の方々と、言葉を交わしたり直接触れあったりという物理的な交流は出来ません。だからといって無為に日々をやり過ごせば、故人は「無きまま」になってしまいます。弔いという具体的な行為によって、故人は仏としての「実体」を回復し、初めて生死を超えた縁が生まれ、関係を取り持ち続けることが出来るのです。弔いから生まれ、続いていく弔縁。仏事とは、その弔縁を具体的に裏付ける行為なのです。(副住職 記)<宗淵寺寺報『がたぴし』第14号所収>

宗淵寺/願興寺

島根県松江市にある曹洞宗寺院・臥龍山宗淵寺と、境内に奉祀されている出雲観音霊場第二十三番札所・新美山願興寺からのお知らせや山内行事の報告、さらに住職や寺族、檀信徒の日暮らし、心にうつりゆくよしなしごとを、そこはかとなく書きつづっています。

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