鶴見御移転百年 大本山總持寺小史


 曹洞宗は両本山制です。一方は高祖・道元禅師が開創された永平寺(福井県志比郡)。もう一方は太祖・瑩山禅師が開創された總持寺(神奈川県横浜市鶴見区)です。

 總持寺は、元々は能登半島の櫛比庄(現在の石川県輪島市門前町)にありました。明治四十四(1911)年に現在地への御移転を完了してから、今年はちょうど百年目に当たります。

 今号の特集では、大本山總持寺の沿革と小史を紹介します。


瑩山禅師と總持寺

 瑩山紹瑾禅師は、文永五(1268)年に越前国多禰村(現在の福井県武生市)でお生まれになられました。熱心な観音さまの信者であった母に育てられた禅師は、8歳の時に出家の志しを立てて永平寺に上がり、13歳になって、永平寺の二世(二代目住職)・孤雲懐奘禅師の下で得度しました。

 その後、永平寺の三世・徹通義介禅師の弟子として修行されますが、義介禅師が加賀・大乗寺(現在の石川県金沢市)に転住されたのに従って大乗寺に移られた後も、積極的な布教活動を展開され、多くの弟子や信者を獲得されます。

 そんなある日、瑩山禅師は霊夢を見られます。それは、観音さまが夢枕に立ち、「奥能登の櫛比庄に諸岳寺という寺がある。今は密教寺院だが、それを与えるから禅寺とするがよい」とお言付けになるものでした。

 不思議に思った瑩山禅師が、後日諸岳寺を訪れると、住職は喜んで禅師を迎え入れ、お寺とその寺領を禅師に譲られました。聞くと、住職も禅師と同じ霊夢を見たのだそうです。

 諸岳寺を譲り受けた瑩山禅師は「諸嶽山總持寺(ルビ:しょがくさんそうじじ)」と名を改められ、開山第一世となられました。元亨元(1321)年のことです。

 瑩山禅師の跡を次いだ總持寺第二世・峨山韶碩(ルビ:がざんじょうせき)禅師(1275〜1366)の門下には、五哲とも二十五哲とも言われる有能な弟子が多数集い、彼らが全国的な布教活動をすることで、更に門下が増えていきました。これら多種多彩な人材を生かすため、總持寺は輪住制(住職を輪番で担当すること)で経営されるようになり、1〜3年おきに住職を交代させました。短期に住職が変わることで、全国の輪住地から衆僧の往来が絶えず、總持寺と門前町は大変な活況を呈したと言われます。


なぜ両本山制なのか

 開創の翌年である元亨二(1322)年に、總持寺は後醍醐天皇より「曹洞出世の道場に補任す」との綸旨を賜りました。勅許の出世道場として、京都・南禅寺と同格に処せられたことになります。またこの一文によって、「曹洞宗」という宗名が史上初めて定まったとも言われます。道元禅師は「曹洞宗」という呼称は用いられませんでしたし、勅許による寺院の格付けも永平寺に先行するものでした。

 特に室町期の両本山は、それぞれ別個に歴史的な展開をしました。その結果、總持寺が全国的に教線を拡張して、最盛期で約1万6000ヶ寺余りの末寺を有したのに対し、永平寺系の寺院は千数ヶ寺と、勢力的には全く奮いませんでした。(ちなみに、宗淵寺も總持寺系の寺院です)

 永平寺が歴史的にも古く、瑩山禅師が道元禅師の曾孫弟子に当たるにも関わらず、總持寺が寺院の格式で永平寺と並び称されるのは、これらの理由に依ります。

 各宗の本山制度が正式に確立したのは、江戸幕府による寺院諸法度の公布に依ってです。当初、幕府は仏教の各宗派をピラミッド構造で支配・管理しようとし、永平寺のみを曹洞宗の最上位に当てようとしていました。しかし、永平寺と總持寺の寺格が匹敵していた事実を鑑みて、最終的に曹洞宗を両本山制にしたのです。

 現在でも、曹洞宗の管長は永平寺と総持寺の両貫主猊下が、2年毎交代でお務めになられています。


鶴見への御移転

 明治維新を迎えると、總持寺を取り巻く環境が大きく変わります。

 京都から東京への遷都や、物流の主役が海運から陸・鉄路へ次第に移行していったことで、能登という地の利が低下していきます。それに伴って「都市開教」への取り組みが、曹洞宗のみならず全ての教団にとって避けては通れない命題となっていきました。

 また廃藩置県によって、それまで加賀百万石の威信をかけて外護してきた前田家の後ろ盾が得られなくなりました。加えて、明治新政府から「輪住制」を廃止する旨の通達がなされます。それまで總持寺の基盤を支えて来た諸条件が、大きな歴史の波にさらされ、転換を迫られることになったのです。

 立地条件での劣等が徐々に明らかとなっていく中、明治三十一(1898)年、突如発生した火災によって、總持寺の伽藍の大部分は灰燼に帰しました。その再建計画の最中に、「首都圏への御移転」が図られるようになったのです。

 これには門前町の住民が猛反対しましたが、總持寺側も「これは曹洞宗にとって100年間を見据えた大計」との信念がありました。両者の対立は、最終的に官裁によって決着し、總持寺の鶴見御移転が決定します。しかし、民意も尊重した上で、元地である門前町にも「總持寺祖院」として伽藍を残すことになりました。


開かれた禅苑

 總持寺が高い先見性に裏打ちされた「開拓精神」によって発展してきた御本山であることは、ここまでのご紹介でも分かって頂けたのではないでしょうか。

 現在でも總持寺は「開かれた禅苑」を謳い、鶴見の地に東京ドーム約7個分に当たる33万㎡もの広大な境内を持ち、JR鶴見駅が参道入り口に位置する利便性もあって、参拝や散策の人波が絶えません。また大学や保育園を境内に併設するほか、昭和の大スター・石原裕次郎の菩提寺としても名を馳せています。毎年7月の3日間にわたって盛大に開催される「み霊祭り・納涼盆踊り」は、雲水(お坊さん)と踊るユニークな盆踊りで、鶴見の夏の風物詩として知られるなど、開明的で都市型の御本山としての風光を放っています。


参考文献

「能登 総持寺」佃和雄 著 北国出版社

「總持寺史」「嶽山史論」栗山泰音 著

「總持寺誌」室峰梅逸 遍

宗淵寺/願興寺

島根県松江市にある曹洞宗寺院・臥龍山宗淵寺と、境内に奉祀されている出雲観音霊場第二十三番札所・新美山願興寺からのお知らせや山内行事の報告、さらに住職や寺族、檀信徒の日暮らし、心にうつりゆくよしなしごとを、そこはかとなく書きつづっています。

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