橋本禅巖老師〜孝禅一如の親切を尽くす〜
禅僧が伝えた元帥の遺戒
「やって見せ、言って聞かせて、させてみせ、誉めてやらねば、人は動かじ」。
旧日本海軍大将(死後に元帥を追諡)だった山本氏五十六氏(1884〜1943 以下、山本氏)が残した言葉として有名なものですが、実はその直接の典拠は残っていません。生前親しかった人たちが「よくこう言っていた」と述懐し、さらにはその伝聞が、生前の人柄や功績への評価とも相俟って、次第に広まったもののようです。
その中でもほぼ確かな一次証言とされるのが、長男・義正氏によるものと、そして生前の山本氏と昵懇だった禅僧・橋本禅巖老師(1899〜1994)のものです。
「徳あるはほむべし。徳なきはあはれむべし…讃めてやることが善を勧めて行く上では大事なことであります。山本さんが『やって見せ、説いて聞かせて、やらせてみ、讃めてやらねば、人は動かぬ』と良く申されていましたが、仕事を教えるのでも讃めてやると云うことが、秘訣のようであります。」(『正法眼蔵四摂法之巻模壁』より)
橋本老師は山本氏の郷里である新潟県長岡市の悠久山堅正寺の開山として昭和十(1935)年に晋住。戦後の混沌がまだ色濃い昭和二十四年から、遷化なさる4ヶ月前までの45年間、市内各所で講話を行い、その数はおよそ三千回ほどに及びました。まるで初転法輪から涅槃寂静までのお釈迦様の45年間の伝道生活のようです。
そしてその講話の中で橋本老師が紹介していたのが、「やって見せ〜」という山本氏の言葉でした。
二人を引き合わせた人物がいます。堅正寺の開基となった二代目・駒形氏宇太七(旧名・佐吉 1883〜1935 以下、宇太七氏)。新潟有数の実業家で、同郷の山本氏とは旧制中学以来の幼馴染でした。
中学卒業後に海軍兵学校への進学を志望した山本氏は、宇太七氏にその理由を「薩摩の海軍を日本の海軍にするためだ」(長岡藩は北越戊辰戦争で薩摩藩の攻撃に敗れ没落した)と明かしました。宇太七氏は応援することを約束し、以降も生涯の親友であり続けたと言います。
後年、商業で成功した宇太七氏が発願して堅正寺を建立する際には、上京して山本氏にそのことを報告し、合わせて開山住職として招請した橋本老師のことを紹介しました。
しかし宇太七氏は入仏が終わった直後に急逝。堅正寺の護持は末弟の駒形十吉氏(1901〜1999 大光相互銀行社長、新潟総合テレビ社長などを歴任)に引き継がれました。
その後も山本氏は、帰郷の際には堅正寺で橋本老師に参禅し、周囲に「一日堅正寺に行けば、君たちの二、三年分は勉強してくる」と得意げに語っていたと言います。
独・伊との「三国同盟」に断固反対したことで多くの非難に晒され、いよいよ暗殺の危険が及ぶに至った際には、山本氏は遺書を書いて海軍の金庫に収め、堅正寺に籠って修養しつつ雌伏しました。堪忍土での綱渡りの受難に比べ、橋本老師との差しでの対話は、実に他愛もない穏やかなものだったと言います。「常在戦場」が座右の銘だった山本氏に、堅正寺は兜の緒を緩めることのできる数少ない場所、出世間の結界道場だったのかもしれません。
太平洋戦争の戦況が悪化する中、山本氏は昭和18年ブーケンビル島で搭乗機が撃墜されて戦死。民間人として初の国葬に付された際には、橋本老師が「大義院殿誠忠長陵大居士」という戒名を授けました。
そんな両者を深く結びつけたもの。きっかけが宇太七氏による仲介だったことは間違いありませんが、もっと直接的に通じる気脈があったように思われてなりません。今回、両者の伝記を散読し対照し、小見で恐縮なのですが、筆者はそれを「孝行」の通底だと見立てました。
山本氏は旧姓を高野といい、元々は儒家の家系でした。29才で相次いで両親を亡くし深い悲しみの中、その3年後に旧長岡藩主の牧野忠篤らに懇願され、断絶していた旧長岡藩家老だった名家・山本家を継承しました。宇太七氏に「薩摩の海軍を日本の海軍にする」と言ったのも、旧薩摩藩閥が主流を為す海軍の中で立身し掌握することで、かつて北越戊辰戦争で失った高野・山本の家名(祖父は戦死し、山本家は一時途絶えた)や長岡人全体の誇りを挽回した上で、国外に目をむけるために過去の国内での恩讐を超越していこうという思いがあったのかもしれません。
母との死別を坐禅が救う
橋本老師の生い立ちについて振り返ります。
明治三十二年に大分県、現在の宇佐市で生誕。農業を営む生家には仁聞菩薩(奈良時代の国東半島に28の寺院を開いたと伝えられる伝説的な僧)の作と伝わる如意輪観音が祀られるなど代々篤信家の家系で、橋本老師の俗名の悉治は、お釈迦様の幼名である悉達多にちなんで名付けられました。幼い頃より祖母に大悲咒を教わって読誦し、やがて年老いて愚痴っぽくなった祖母も、幼い橋本老師が観音経を訓読すると、愚痴をおさめて背後で一緒に拝むので、しばらくはずっと繰り返し観音経を読誦していたと言います。
その祖母が橋本老師16歳の時に亡くなり、その翌年には祖父が、さらに同じ年に母が相次いで亡くなります。橋本老師はその時の様子を次のように振り返っておられます。
「母方の祖父が私の家で亡くなってその遺骨を先祖の墓地に納めに行く道すがら、あれだけ達者であった祖父が今はこうしてお骨になっている、(祖父に)何度も連れて行ってもらった海も昔のままであるし、遠くの山々も昔のままである。人間だけはあっという間に骨になってしまう。天地の悠久なのに比べると、人生は何という儚いものであろうかと、心細い 気持ちになって きたのであります。
そういうことがあって2 ヶ月ばかりした頃に母が 風邪気味だというので床について寝込んでしまったのでありますが、普通の病気よりも少し重いのではないかと思ったのでありますが、まさか死ぬとは全く思ってもいなかったのであります。死ぬのは年寄りのことで 、若い者はそのうちにきっと回復するであろうと、そう思っていたのでありますが、
ある日の深夜、〝みんなで最後の看病をするように〟と言われ、子どもたちが母の周りに集まって、足をさすったり背中をなでて、親切を尽くして回復を祈ったのでありますが、足は次第に冷たくなる。背中も冷たくなってくる母の死は、刻々に近づいてきつつあったのであります。
私は顔のすぐ前に座って、母の言葉に耳を澄ましていたのでありますが、その時ふと思いついたのは、自分の友達もこうした思いがけないことがいつ起こるかもしれん。それとも知らず、誰も彼も親不幸をばかりをしている。母の枕元を飛び出して大鐘を鳴らして、世界中の人々にこのことを知らせたいと思ったのであります。
そう思った途端、目の前の大地が真っ二つに裂けた、真っ暗な底なしの世界に落ちていってしまったのであります。いくら呼んでも返事をしてくれるものは誰一人もいない。掴まるものもないし、何にも見えないで、何にも聞こえない。これが世に言う無間地獄というところかもしれんとそう思ったのであります」。(NHK『こころの時代』平成5年の出演回より)
その時ふと、小学校6年の時に先生から鎌倉の禅寺の話を聞いたことを思い出しました。そして、たまたま家の本棚に『普勧坐禅儀』があるのを見つけて手に取ると、繙いて、書いてある通りを真似るように坐禅をしてみました。
始めは足が折れそうに痛く、呼吸も整いませんでした。しかし我慢してでもやり通さないと無間地獄を抜け出すことができない。そう言い聞かせるように坐禅に取り組むうちに、燻っていた感受性がみるみる明快で豊かになっていきました。それまでは道を歩くと必ず石ころを蹴飛ばしていましたが、まるで足元の石が母親のように思えてきて、蹴ったり踏んだりせず丁寧に緩歩するようになっていきました。怠惰で人任せだった生活態度は、家の手伝いを自ら買って出るなど活発になり、乱雑に脱ぎ捨てていた玄関の履物はきちんと揃うようになっていきました。あらゆるものに母親を労わるように親切を尽くすようになったことで、橋本老師は「母親を生活の中に取り戻した」といいます。
真っ二つに裂けた底なしの無間地獄だった周りの景色も、無情説法の極楽浄土だと感じるようになり、まるで松林がお釈迦様のお話を直接伝えているようで、いつも眺めるようになりました。
これまで、そういう状況は誰にも聞いたこともないし、そういう導きを受けたこともない。しかし自身は明らかに坐禅によって救われる経験をした。これからも坐禅ができる生活を続け、そして坐禅の素晴らしさを人々に勧めたい。
その志はもはや発心。もうこの先の人生は出家して歩む選択しかありません。中学卒業を間近に控えても進学のための試験勉強をすることもなく、やがて出家したい旨を父親に伝えます。長男だったこともあって最初は反対されましたが、橋本老師の決心が揺るがないのを見ると、最後は出家を許可してくれました。
時代を代表する禅匠からの薫陶
老師ご自身は、出家ができるならどんな環境でもどんなに貧しくても厭わない覚悟でしたが、父親としては親心からか、せっかくならばそれなりの環境を整えてひとかどの人物の弟子にしてやりたい、と願ったようです。
知人の紹介で、たまたま別府に掛錫ちゅうだった日置黙仙禅師(1837〜1920)への拝謁が許されました。その時には日置禅師から、今後のことは同行の堀内文次郎中将(1863〜1942)に相談するようお示しを受けました。
しかしその後事情が変わったのか、堀内中将に連絡を入れることもないまま、結局は新井石禅禅師(1864〜1927)に弟子入りすることとなり、当時新井禅師が住職をしていた最上寺に上山することになりました、橋本老師20歳のことでした。
上山した時、新井禅師はたまたま巡錫中で不在でした。橋本老師は新井禅師を追いかけて伊豆の蔵春院に向かいました。その時の蔵春院は授戒会中で、看板を見ると「戒師 日置黙仙禅師」の名があります。一年前の拝謁とその後の没交渉が脳裏によぎりましたが、「なんとかなるだろう」と山内に入り、随喜中の新井禅師と面会し挨拶をしました。その時、新井禅師から「石應」という法名を一旦授かりましたが、すぐに隣の部屋の襖が開き、そこに入ってきたのは堀内中将でした。一年間連絡を待っていたという堀内中将に橋本老師が非礼を詫びると、さらに隣の部屋の奥から「その青年をこちらに連れてきなさい」と声がします。入ってみると隣の部屋におられたのは日置禅師でした。
日置禅師は「弟子は新井さんに取られたが、名は儂がつける」と言って、「禅巖」の名を授けてくださいました。堀内中将もこれには喜ばれ、
動きなき 巖に匂う 梅の花
というお祝いの句を贈られました。
偉大な両禅師から取り合いされるような「三角関係」とはなりましたが、ご縁や成り行きとは言いながら、結局は新井禅師こそ本師になるべきお方だった、と振り返っておられます。新井禅師が歩行される際には自ずと足元に目が向きました。すると新井禅師も同様に、いくら暗がりであっても石や落ち葉を踏むことなく、丁寧に歩かれていたのだそうです。
大正九年、新井禅師が總持寺独住五世になると、東洋大学で学びながら随身してこれを助け、大正十四年の太祖六百回忌大遠忌では首座を務めました。
翌年に嗣法すると、今度は岐阜県伊深の正眼寺(臨済宗妙心寺派)に安居。当時の師家は小南惟精老師でした。一旦暫暇して再び新井禅師に随身し、やがて遷化されると葬儀を勤めました。そして正法眼蔵』を参学するために岸沢惟安老師(1865〜1955)の住する静岡県旭伝院に逗留。昭和四年には再び正眼寺に戻って安居しました。
正眼寺は「天下の鬼叢林」と呼ばれるほど厳しい家風で夙に知られ、また岸沢老師も指導が親切で厳しいことで有名でした。橋本老師もそれなりの覚悟をして門戸を叩いたそうですが、どちらでも怒られたり厳しくされた(と感じた)ことはなかったそうです。厳しさは懈怠を覚まし一層修行へ邁進させるための叱咤激励です。すでに道心が厚く威儀進退も綿密な橋本老師は「怒らなければいけない」ような行者ではなく、むしろ一一人前と見なされて、それに見合った指導を受けられたということではないでしょうか。
四年ほど正眼寺で安居した後、「越後四箇道場」の一つで、かつて新井禅師も住職をしていた雲洞庵(新潟県南魚沼市)で役寮を勤めていたところ、宇太七氏からの請を承け、堅正寺に晋住することになりました。
孝は百行の本
当初は講話でも解説するほど『正法眼蔵』を参究していた橋本老師でしたが、後年は道元禅師の次の詩を愛好されました。
「六の道 遠近(おちこち)迷ふともがらは 吾が父ぞかし吾が母ぞかし」。
「『正法眼蔵』も立派だか、この詩が道元禅師の宗意安心の根本で、結局私もこの境地一つになった」。(テレビ出演のご発言の大意)。
橋本老師は生老病死の今際を坐禅に救われ出家しましたが、それは「すべてを父や母だと思って親切を尽くす」ことの体現であり、そして長い参学を経て再びたどり着いた発心即菩提、正に孝禅一如のご生涯でした。
また山本氏も堅正寺に「申大孝」(国や祖先に感謝し、孝行すること)と揮毫した一幅を奉納するなど、生涯を通じて「孝」を大切にしました。戦後になると、橋本老師は出征する山本氏を励ますようなやりとりがあったことを後悔されていた、とも伝え聞きます。これは「孝」が戦前では四恩説と不可分だったために生じた「パラダイム・ギャップ」(規範の相違)のためでしょう。これについては、以前佐々木珍龍老師を紹介した際にも触れていますので、ここでは内容に踏み込まないでおきます。
いずれにしても、「孝は百行の本」を縁(よすが)として、それぞれの分野に精通した者たちの固い結節点が、堅正寺という精舎だったのかもしれません。(住職 記)
<参考文献 『道元禅師 宝慶記講話』(大法輪閣 刊) 『観音経摸壁』(鴻盟社 刊) その他>
(曹洞宗参禅道場の会『参禅の道』第85号 所収)
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