曹洞宗の両本山制

曹洞宗は他の宗派には見られない「両本山制」を敷いています。

この記事では、永平寺と總持寺の成立過程を見ながら、特に後発の總持寺が、なぜ永平寺に匹敵する格式を有するのかについて、その経緯を簡単に説明します。(画像中、敬称略)


道元禅師と永平寺

寛元2(1244)年、道元禅師は真実の仏弟子を育てる道場として、越前志比庄に大佛寺(後の永平寺)を開かれ、建長5(1253)年には弟子の孤雲懐弉(こうんえじょう)禅師(1198〜1280)に永平寺の住持を譲られます。

懐弉禅師の弟子、徹通義介(てっつうぎかい)禅師(1219〜1309)は宋へ渡って中国五山(官制の寺格制度)を見学し、懐弉禅師の跡を継いで永平寺三世となると、七堂伽藍を整えるなど、現在の永平寺の基盤を築かれます。

応安5(1372)年、永平寺は後圓融天皇より「日本曹洞第一道場」の勅額を賜り、出世の道場となりました。

元和元(1615)年、徳川幕府が「寺院諸法度」を発令。「日本曹洞の末派は永平寺の家訓を守るべし」という命が下され、曹洞宗の大本山となりました。


徹通義介禅師と大乘寺

義介禅師は住職を退くと、永仁元(1293)年に永平寺を去ります。

その背景には、永平寺の四世となった義演禅師らとの間に、修行や永平寺の経営方針などについての見解の違いがあったとも言われます。

やがて加賀の地へ移った義介禅師は、守護職冨樫氏の帰依をうけて、正応2(1289) 年、野々市に大乘寺を開きました。


瑩山禅師と永光寺

その義介禅師の門下に、道元禅師とともに「両祖」として並び称される瑩山紹瑾(けいざんじょうきん)禅師(1268~1325)がおられました。

瑩山禅師が開かれた永光寺は勅願所として隆盛し、また住職を短期間で交代し栄誉を分かち合う輪住制を敷くなど、曹洞宗の地方発展の基礎を作られました。

また、山内に道元禅師の師である如浄禅師・道元禅師・懐弉禅師・義介禅師、そして自らの遺骨や遺品などを埋葬して開山堂とし「五老峰伝灯院」と命名、「この五老峰を守るべき」と遺託して、ご自身の系譜が正統であることを示されました。


瑩山禅師と總持寺

元々は諸嶽寺観音堂と称していた能登鳳至郡櫛比村(現在の石川県輪島市門前町)の寺領を、時の寺主である定賢律師が霊夢を感じて、元亨元(1321)年、当時永光寺に住していた瑩山禅師を拝請して譲りました。

瑩山禅師はこれを諸嶽山總持寺と改め、翌年には勅宣を賜り官寺に列せられて、紫衣出世の道場になったと言います。

正中元(1324)年7月には、瑩山禅師は總持寺を弟子の峨山韶碩(がさんじょうせき)禅師(1275〜1366)に譲り、自らは永光寺に帰って、翌年永光寺も弟子の明峰素哲(めいほうそてつ)禅師(1277~1350)に譲ると、8月15日に亡くなられます。


大本山總持寺と門派の伸張

明峰禅師と峨山禅師は、瑩山禅師の「二大弟子」と謳われ、それぞれ寺院経営と弟子の育成に大きな功績を残されました。

特に總持寺は峨山禅師の門下に五哲とも二十五哲とも称された優れた弟子が出て、永光寺に倣った輪住制の下、北前船の交易と共に諸地方に進出。各国の守護や領主層の庇護と帰依を受けて、大寺院の開創や、旧仏教系寺院の改宗、修験関係の遺跡の復興などを通して、教団拡張の確固たる基盤を築きました。最盛時には末寺が一万六千を数えたと言われ、永平寺や永光寺をしのぐ寺勢を誇るようになり、当時困窮していた永平寺を支援するなど、「道元門派」である曹洞宗の中核を為すようになります。

元和元(1615)年の「寺院諸法度」によって、永平寺と共に曹洞宗の大本山に任ぜられました。

明治44(1911)年には、伽藍の消失をきっかけとして鶴見に本山機能を移転させます(能登には祖院として伽藍が復興され、現在も修行道場として残っています)。中世に北前船で教線を拡げた總持寺が、近代になって、今度は鉄道発祥の地となった横浜を拠点にしたのは、大変興味深い事跡です。


永平寺系と總持寺系

実は、中世の曹洞宗には独立した本山が他に4ヶ寺あったと言われます。

しかし「寺院諸法度」の制定によって、永平寺と總持寺以外は本山としての格式を失い両本山制度が確立します。しかし、永平寺と總持寺の間では、その格式の優劣については議論が絶えなかったと言います。

明治5(1872)年、当時の大蔵省の仲介で話し合いが持たれ、一宗で両本山を奉戴する曹洞宗の体制が確認されたことを受けて、両本山の東京出張所が実質的な宗務機関として発足。これが現在の宗務庁、宗教法人曹洞宗の本部です。

現在、教団の最高位である管長は、両本山の貫主が2年おきに交互で就任します。また曹洞宗の議会は、永平寺系と總持寺系の両会派によって議員数の均衡が図られる「二大政党制」となっています。

そんな中、島根県第二宗務所の管内では、原則として永平寺系と總持寺系を隔てず、両本山の和合と護持を目的とした単一会派「両山会」議員候補を推戴しています。これは全国的にも珍しいことです。


ラーメン屋の暖簾分けみたいな両本山制

これらの経緯について、ざっくりと「ラーメン屋の暖簾分け」に例えたら、もしかしたら分かりやすいかもしれません。

中国で修行して、本場の味を体得した道元禅師。日本に帰って、人里離れた山奥で、客が数人しか入れないカウンターだけの簡素な構えの店を出します。経営者でもあった道元禅師ですが、お客に「喋るなら、代金はいらないから出て行け」と極度の緊張を強いる頑固な店主。メニューはラーメンの中と大だけ。具もチャーシュー1枚にメンマが2本、ネギが少々。卓上のコショウもない。でも、すべて自家製の麺とスープは、間違いのない本物の味でした。

やがてお店を承継する段階になって、先代のやり方を頑なに守ろうとする一派と、店の構えをもっと整えて、厨房を機能的にしましょう、客席も家族や集団のお客のための座敷を作りましょう、トッピングでチャーシュー増量や半熟煮卵、コショウや追加のタレで味変も自由、これでお客も単価も増やして経営を安定させましょう、という一派の間で見解が分かれて互いに相容れず、結果として後者は独立して新規の店を出します。

更にそこから暖簾分けした瑩山の總持寺では、フランチャイズ制(寺院の建立や改宗)、オーナーの中央研修制度やセントラルキッチン(輪番制)を整備して、飛躍的な全国展開を遂げます。

永平寺から見たら總持寺は、昔辞めた店員の教え子が出した新規店。でも總持寺から見ると、「曹洞宗ラーメン」の味を世に広めたのは自分たちという自負がある。

やがて「曹洞宗ラーメン」は永平寺が「元祖」、總持寺が「本家」を名乗り、お互いにその「正当性」を主張するようになります。

でも、お客である信者が求めている味の基本はどちらも、道元禅師による「黄金のレシピ」。

グルメサイトの評価は高いけれど、敷居が高い印象の元祖。でも本家との味の違いがわかる人もほぼいないし、何なら本家も問題なく美味しい上にメニューも多く、店内も明るくて入りやすい。

現在では、お客様のためになるならばと、どちらの系列も屋号に「曹洞宗ラーメン」と掲げて良いことにしましょう、という申し合わせが締結された、ということになるでしょうか。


ちなみに・・・

当寺は總持寺系の寺院ですが、住職は永平寺で修行しました。


宗淵寺/願興寺

島根県松江市にある曹洞宗寺院・臥龍山宗淵寺と、境内に奉祀されている出雲観音霊場第二十三番札所・新美山願興寺からのお知らせや山内行事の報告、さらに住職や寺族、檀信徒の日暮らし、心にうつりゆくよしなしごとを、そこはかとなく書きつづっています。

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