宝満山 所縁のお地蔵様

令和5年3月19日、観音堂北側にて、とあるお地蔵様の遷座供養を行いました。

このお地蔵様は、元々内馬地区の観音堂の前に安座されていたものです。

観音堂自体は地域の方々が発願されて、昨年場所を路地を挟んだ向かい側の公会堂の敷地に移して再建されました。

内馬観音堂の歴史
観音堂の成立の時代は古く未定で、慶應3年(1868年)の棟札によると江戸時代には既に集会所前以外の場所にあったようです。念仏鉦(かね)には、寛政二年(1790年)戊八月 江戸西村和泉守 雲州意宇郡 上出雲 江村落馬 観 音堂様主内馬谷中 【注釈: 西村和泉守(にしむらいずみのかみ)は鋳物師の銘で 神田鍛冶町において江戸時代より長く続いていた】 と記されています。
集会所前の観音堂は、江戸時代末から明治初期頃に宝満山鉱山関係者により、鉱山開発による潤沢な資金で、旧松江藩のお抱え大工たちを使って高度な技術で作られました。その後、明治22年秋8月21日の棟札によると、一対の十一面観音像と聖観音像が再建されました。 十一面観音像は、おそらく内馬地区民の平安を、 聖観音像は 宝満山鉱山関係者の菩提を弔うために作られたと考えられます。
昭和初期に世界の銅の生産量の増大とともに採算が合わなくなり、 宝満山鉱山が閉山となり鉱山関係者も内馬を去ったことにより、 地区住民に寄託された観音堂を守って百五十年余りが過ぎました。 その間には地区住民による何度かの屋根替え (記録によると昭和7年・昭和17年・昭和29年)を行って、地域の観音堂を守って きたことが棟札に記録されています。内馬地区の往時には、 演芸会、 映画、 花火の打ち上げもあり、近郊からの見物人があったようです。 旧観音堂の座の下には、その当時の面影の機材が三基残っていました。の旧観音堂は、高度な技術で作られたが故に修復には莫大な費用がかかるため、 令和4年に集会所の隣に小さな観音堂を新築して観音様を遷座し、今後も地区住民の平安と宝満山鉱山関係者の菩提を弔っていくこととなりました。(冊子『内馬観音堂 建設事業の歩み』より)


元の敷地に残されたお地蔵様については、その供養主が誰か判然としないため、当山の境内に遷座されることになりました。

ただこのお地蔵様も、少なからず「宝満山」との所縁があるようです。


地区住民のある方は、「宝満山鉱山の関係者の家が火事で焼失し、その犠牲者を弔うために奉祀された、と言い伝えられている」と証言されていました。

また以前、地元のケーブルテレビの番組で、当地を訪れた郷土史家の方は「銅採掘の作業で亡くなられた方を弔ったものではないか」と解説をされていたようです。


何よりも、このお地蔵様の本体そのものは来待石でできていますが、その台座はカラミ石といって、銅の精錬によって溶出された岩石を再成型した石材でできており、独特な赤銅色の混在は、内馬地区が銅山と切っても切れない関係だったことの物証なのです。


今回はその台座ごと遷座させていただき、宝満山鉱山の「記憶装置」として、当山でご供養してまいります。

宗淵寺/願興寺

島根県松江市にある曹洞宗寺院・臥龍山宗淵寺と、境内に奉祀されている出雲観音霊場第二十三番札所・新美山願興寺からのお知らせや山内行事の報告、さらに住職や寺族、檀信徒の日暮らし、心にうつりゆくよしなしごとを、そこはかとなく書きつづっています。

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