4/17 観音講恒規法要、大般若会のご報告
4月17日の午前中、願興寺観音講の月例恒規法要が執り行われました。
法要後には、先日晋山式を挙行された永平寺の新しい貫首、南澤道人猊下についてお話しさせていただきました。以下はその要約です。
南澤猊下は、私が永平寺修行中の監院(寺務を統理して監督する役職)として山内を取りまとめておられました。
私も身辺のお世話をさせていただいた時期もございましたが、大変恐れながら、当時の監院老師に対して、大変「身綺麗」な方という印象を持っておりました。
おそらくご自身で身の回りのことを全てなされていたからだと思いますが、お部屋の掃除に入ってもあまり片付けるものがありませんでしたし、私たち修行僧を「小間使い」されることもあまりなかった、と記憶しています。
1日の予定も、基本的にはご自身で把握されていたので、こちらが時間になってお部屋にお声掛けする前にお部屋を出立され、スタスタと目的地に歩いて行かれるのを、慌てて追いかけるようなこともありました。
そして何よりも、朝の坐禅は修行僧よりも早く起きて、僧堂で坐られていました。
僧堂で寝ている修行僧が起きた時には、もう南澤監院が坐っておられてたことも、数多くありましたが、監院老師はそれを咎めることもなく、ただ黙々と坐禅をしておられました。
口調も感情も含めて、全ての動静が穏やかでおられましたが、反面分かりやすい言質や強い感情の機微がないので、恐れながら私などには、監院老師の明確な意思やお考えがどこにあるのか、正直計りかねるところもありました。
しかし一度、南澤監院老師の「鋭い才覚」に触れたと感じた時がありました。
それは修行1年目の冬、摂心の時の話です。
当時私は典座寮に配属されていました。とにかく1週間、朝起きてから夜寝るまで坐り続ける摂心修行。この間、食事も3食全て坐禅しながら食べますが、この間特別に布施供養される施主も多く、普段よりも食事の品数が増えたりします。
その分、典座寮の仕事は増えて、厨房で朝から晩まで立ちっぱなし走りっぱなしで食事を作ります。
坐禅道場としての年間行事のクライマックスである摂心の間、実は典座寮は、唯一坐禅することができない寮舎なのです。
摂心の最終日の夕食の後片付けが終わって、ようやく典座寮の寮員も最後の徹夜摂心のために僧堂で坐ることができるのですが、正直言って疲労のピークでの坐禅は本当にしんどくて、身心ともに安楽の境界にはほど遠いものでした。
最後の一坐が終わり、全山が一堂に集まる中で、南澤監院が挨拶に立たれ、まず1週間の坐禅修行を終えたことに対する慰労を述べられました。そしてその次に、次のように仰りました。
「この度の摂心は、特に典座寮のみなさんのお力添えがあって務めることができました。心よりお礼申し上げます」
全山で20以上ある寮舎の中で、南澤監院は特に典座寮のみを取り上げ、慰労と感謝を述べられたのです。
典座寮の仕事は表立って見えるものではなく、特に摂心中、典座寮員は全山の流れから取り残されたような疎外感すら感じることもあるのですが、その慈悲深いお言葉、そして何よりも、監院老師が私たちの仕事をちゃんと見て気に留めて下さっていた事実に触れて、全てが報われた気がしました。そして、次の日からまた厨房に立つ意欲が湧き上がったことを、今でも覚えています。
永平寺の寺務を統理される立場として、偏ることなく全体を見ておられるからこそ、決して光の当たらない場所にも目配せをされ、光を当てて人心の掌握をなされているのだと、この時思い知りました。
そして午後からは組合寺院、当寺梅花講、そして檀信徒の方がたと、2年ぶりの大般若をお勤めしました。
今年はそれまで提供していたお斎も中止した上で、一般檀信徒の参拝も解禁しましたが、やはりいつもと比べてお参りはかなり少なかったと、言わざるを得ません。
しかし、一度止まりかけた日常が、こうして手探りでも戻りつつあることに悦びを感じながらの法要となりました。
大般若の後には総代世話人会を実施し、予算決算、行事予定などについて審議しました。
また、山門の建て替えについて検討を進めることと、口承相伝が難しくなってきた仏事について、当山独自の手引書を作成することなどを協議しました。(住職 記)
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